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佐賀の七賢人「島 義勇」の蹟を訪ねて (Ⅰ) [故郷(佐賀)を歩く]

 佐嘉神社への鳥居を進んだ右手に「佐賀の七賢人」の石碑があります。
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 幕末から明治初期に活躍した10代藩主鍋島直正(閑叟)公、弘道館出身の大隈重信、江藤新平、大木喬任、佐野常民、島義勇、副島種臣の七公を顕彰しています。その中で、衣冠束帯姿の写真は鍋島直正と島義勇ですが、奇しくもこの主従は北海道開拓において先駆け的貢献を果たしています。
七賢人 カット.jpg

 9代鍋島斉直の文化5年(1808年)におきたフェイトン号事件で長崎警護の失態を幕府から責められ、外国の脅威を実感した佐賀藩は次の10代直正になって藩の近代化を促進させました。8代治茂は井伊家より姫を娶ったことから、当時の鍋島家と井伊家の結びつきは良好で、更に鍋島正直と井伊直弼は同じ年だったこともあり交際を深め、日本を取り巻く外国勢への危惧を共有していたとも言われています。
 井伊直政が大老となった翌年の安政6年(1859年)、井伊直弼の推挙により鍋島直正は「中将」に任じられています。それまでの藩主の多くは従四位下侍従。8代治茂が従四位下 肥前守 左近衛権少将まで進んでいます。同年長崎海軍伝習所閉鎖でオランダより寄贈の蒸気練習艦「観光丸」が佐賀藩預りとなり、三重津で運用されています。桜田門外の変で直弼の死により頓挫しますが、直正はこの時期に天領の天草を佐賀藩預りにして、そこに軍港を作ることを陳情しています。
 
 時代を少し戻します。安政3年12月21日、これまで幾度となく交渉が続いた日露和親条約が締結。箱館、下田、長崎がロシアにも開港しました。長崎で対露交渉が続けられていたのを見聞していた直正は、開港した箱館に注目し、更に北方防衛にも危機感を持っていたようです。
 そこで直正は、安政3年(1856年)近習の島義勇に蝦夷地の探索を命じます。
 今回は、島義勇にスポットを当て、藩主直正や幕末・維新期に活躍した多くの藩士の蹟も併せて、巡っていきたいと思います。

 島義勇は文政5年(1822年)9月12日、佐賀藩士島市郎右衛門の子として、佐賀城下の精小路に生まれています。
 *佐賀清和体育館敷地が明治期、島義勇の屋敷地と伝わっています。
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 8歳で藩校弘道館に入学しています。併せて、従兄である枝吉神陽に皇漢学を学んでいます。
 神陽は、東の藤田東湖と並び称される国学の権威であり、「日本一君論」を提唱し、藩内の思想をリードしていました。
 弘化元年(1844年)23歳で弘道館を卒業して、家督を相続しています。その後、諸国遊学にて、熊本の林 桜園、昌平黌の儒官(総長)佐藤 一斎、水戸学の藤田 東湖などに学んだと伝わります。
 特に藤田東湖の水戸藩は蝦夷地探検家の間宮林蔵や松浦武四郎の後援者と目されていて、島義勇は藤田東湖との交流で、蝦夷地の概要を習得したとも言われています。
 弘化4年(1847年)26歳で帰藩して鍋島直正の外小姓、弘道館目付けとなります。
 嘉永3年(1850年)義祭同盟発会式に参加しています。枝吉神陽、実弟の枝吉次郎(副島種臣)、島団右衛門(義勇)、大木幡六(喬任)、木原義四郎(隆忠)らが参加していいます。これ以降、毎年5月25日に行われて、江藤又藏(新平)、中野眞七郎(方藏)、大隈八太郎(重信)、久米丈太郎(邦武)、鍋島茂眞(直正の兄で須古鍋島家を継ぎ、25年間本藩執政、弘道館学館頭人に就任し、藩校教育に力を入れた。)、鍋島直嵩(白石鍋島家・本藩家老 請役所総裁)らも加わっている。
 *龍造寺(佐賀)八幡宮境内の楠神社前に顕彰碑があります。
龍造寺八幡宮前.jpg
義祭同盟顕彰碑.jpg
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 鍋島直正から島義勇は安政3年(1856年)蝦夷地探索の直命を受けます。下命はロシアの南下策に対応するため、ロシアと接する蝦夷地の現状調査と箱館における佐賀藩交易の根回しであったようです。
 
 *前年の安政2年(1855年)7月25日、鍋島直正は長崎にてオランダ蒸気船ヘデー(ゲデー)号に乗船、佐賀藩精錬方では蒸気車や蒸気船の雛形の製造に着手、また多布施反射炉で鋳造した大砲を品川台場に据え付けています。長崎防衛、藩政改革が軌道に乗り佐賀藩の近代化を推し進めると同時に、正直は蝦夷地にも目を向けていました。直正はそれ以前にもオランダ船バレンバン号に乗船したことがあります。
 *弘道館教授で寛政の三博士である古賀精里の次男古賀侗庵とその子謹一郎(茶渓)は幕臣となっていました。昌平黌の儒者であった古賀謹一郎は国外への関心も強く、独学で漢訳蘭書で西洋事情を学んでいます。
嘉永6年(1853年)ロシアのプチャーチン使節来航時、川路聖謨らに同行し長崎での交渉に従事しています。佐賀藩人脈に幕府のロシアとの交渉官がいました。
 ■余談■
 古賀謹一郎の昌平黌および家塾久敬舎で教えた儒学上の門人に河井継之助(長岡藩家老・戦術家、白洲退蔵(白洲次郎の祖父)など多彩。勝麟太郎とともに創案した洋学研究機関である蕃書調所が安政4年(1857年)開設。蕃書調所頭取(校長)として、教授に箕作 阮甫(ペリー来航時に米大統領国書を翻訳)をあて、教授見習の中には、村田蔵六(大村益次郎)、松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)など幕臣以外からも採用している。明治後、東大の前身となる大学校の教授に明治新政府から招聘されるも幕臣として節度から辞退し、静岡に移り住んでいます。
 
 安政3年(1856年)9月4日、島義勇は佐賀城下を出発し、萩・津和野・浜田・鳥取・京都を経て江戸に入り、11月7日に江戸を発っている。この期間を「安政三年日記」として記録しています。各地で多彩な人物と交流しています。

 ■余談■ 他の七賢人の当時の状況
1)佐野常民
 島と同年である常民は精煉方頭人として、安政2年(1855年)に日本初の蒸気機関車の模型を完成させ、長崎海軍伝習所で伝習(一期生)を受けている。
2)副島種臣(島の母方の従兄弟)
 嘉永5年(1852年)京都に遊学、尊王活動に従事。兄神陽の尊王思想を実行しようと「将軍廃止と天皇親政」の意見書を公家大原重徳に提出、久邇宮朝彦親王より藩兵の上洛を要請される。しかし藩主直正は動かず、種臣を藩内に留めるべく、弘道館の国語教授に命じています。
3)江藤新平
 安政3年(1856年)「図と 海策(かいさく)」なる長文の時事意見書を執筆。経済及び軍事の近代化を図るために積極的開国を主張しています。
4)大木喬任
 この時期詳細不明。藩内での勤王運動に参画。
5)大隈重信
 安政2年(1855年)に、弘道館での南北騒動をきっかけに退学、安政3年(1856年)、佐賀藩蘭学寮に転じています。旧態然の儒学学生と洋学志向の学生との弘道館内対立事件で、首謀者として退学もすぐに復学を許されています。

 島義勇はその後、仙台伊達藩など東北地方を廻り、安政4年3月頃に同僚の犬塚与七郎と箱館に入っています。

 ■ 現在の函館(箱館)160余年後の町並み。当時は箱館山の麓の港を中心に集落がありました。当時の箱館奉行所は現在の元町公園に置かれていました。
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 幕府旗本で函館奉行の堀利煕の蝦夷地視察(廻浦)に同行し134日にわたる視察に向かいました
。主に蝦夷地周囲を船と徒歩で廻っています。幕府公認ではなようですが、藩主直正は堀利煕とも親しく、島は堀の近習として参加したとも言われています。
 当時の資料によりますと、同年閏5月11日に箱館を出立し、ヤムククシナイ(現:八雲町山越)・ヲシヤマンベ(長万部)からスツツ(現:寿都町)・イワナイ(岩内)・ヲタルナイ(現:小樽)・ゼニハコ(銭箱)・イシカリ(石狩)・ハママシケ(現:石狩市浜益区)・ルルモツヘ(現:留萌)・トママイ(苫前)・テシホ(現:天塩)・ソウヤ(宗谷)から樺太南部を巡視し、モンベツ(紋別)・アバシリ(網走)・シヤリ(斜里)・シベツ(標津)・ノツケ(野付)・アツケシ(厚岸)・クスリ(現:釧路)・ヲホツナイ(現:十勝川河口 打内・大津)・ヒロオ(広尾)・襟裳岬・ニイカツプ(新冠)・ユウフツ(現:苫小牧・勇払)・チトセ(千歳)・シラヲイ(白老)・ノボリベツ(登別)・モロラン(室蘭)・ウス(有珠)・レフンケ(現:豊浦町字礼文華)から長万部と道内を一周し9月27日に函館に戻っています。
北海道 白地図.jpg

 *巡察時の記録として島義勇の「北入記」が今に伝わっています。全4冊(雲・行・雨・施)があったと言われていますが、「雲」の原本は伝わっていません。
 仙台藩士玉蟲(虫) 左太夫も参加していて、同名の「入北記」9冊を残し、こちらは原書が全て伝わっています。玉虫・北入記に「安政4年(1857年)閏5月26日午前10時に島団右衛門道同、松浦武四郎へ参る」とあります。
 *蝦夷地巡察で島義勇と交遊した人
1)函館奉行の堀利煕(1818年~1860年 享年43歳)
 幕臣・堀利堅(大塩平八郎の乱時・大坂西町奉行)の四男。安政5年(1858年)に新設の外国奉行、のち神奈川奉行も兼任し、横浜港開港に尽力し、通商条約での日本国全権の一人として署名。万延元年(1860年)プロイセンとの条約交渉において、不手際を老中安藤信正から指弾され、9月に神奈川奉行免職。11月6日、プロイセンとの条約締結直前に自刃しています。
 ■余談■
 箱館奉行は当時3名任命され、1名は江戸在府・竹内保徳、1名は箱館在勤・村垣範正(後に遣米使節の副使・外国奉行)、1名が迴補の堀利堅でした。迴補に随行した随員12名の中には、島・玉虫の他に榎本武陽もいました。

2)仙台藩士の玉蟲 左太夫(1823年~1868年 享年47歳)
 江戸の湯島聖堂に学び塾長となる。安政4年の蝦夷地巡察に同行、「入北記」を署す。万延元年(1860年)日米修好通商条約の批准書交換使節団の外国奉行随員として渡米、「航米日録」全7冊(8冊の内1冊は秘書となっています)を著す。遣米使節の記録の中でも、客観的で世界一周した各地の実情を詳細に記録しています。
 慶応4年(1868年)戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟の成立のため尽力し軍務局副頭取、明治2年(1869年)敗戦に伴い捕縛され、獄中で切腹しています。
 *幕府は東北諸藩に蝦夷地警備を命じ、仙台藩では蝦夷地の白老(現白老町)に安政3年(1855年)仙台陣屋を置いて、襟裳岬を経て国後島・択捉島までを守備範囲としていました。陣屋跡地は昭和41年(1966年)国指定の史跡になり、近くに「仙台藩白老元陣屋資料館」が開館しています。
 ■余談■
 鍋島直正は江戸出府時、遣米使節派遣の計画を知り、国元に随行者の人選を命じています。結果、正使一行が乗船したポーハタン号に本島喜八郎(長崎海軍伝習生)、島内栄之助(長崎海軍伝習生、火術方)、小出千之助(長崎海軍伝習生、語学に堪能)、綾部新五郎(小城藩)、医師川崎道民(長崎海軍伝習生、写真技術を習得し佐賀の写真技術の祖)の5名、咸臨丸には秀島藤之助(精錬方・アームストロング砲製造に従事)、福谷啓吉(長崎海軍伝習生、精錬方・蒸気船建造に従事)の2名、計7名が派遣されています。*長崎海軍伝習所一期生において佐野常民以下佐賀藩藩士はオランダ教官から高評価で、修練も幕臣・他藩を凌駕していたようです。
 佐賀藩が幕臣以外で最も多い人数を派遣できたのは、藩主直正の幕閣との交流の賜物であり、操船技術を会得していた人材が豊富になっていた事だと考えられます。
 長崎でオランダ船に乗り込むほどの直正ですから、彼の心底では自分も随行したかったのではないでしょうか。随行する藩士に、事細かな視察目的を指示しています。

3)松浦武四郎(1818年~1888年 享年70歳)
 現在の三重県松坂市の郷士の出身。蝦夷地を六度に渡り調査し、当時蝦夷地に関しての第一人者であった。伊能忠敬や間宮林蔵によって、蝦夷地の地図は作られたが、あくまで白地図に過ぎませんでした。安政2年(1855年)、「蝦夷山川地理取調御用御雇」となり、道内や樺太をくまなく廻り、「東西蝦夷山川地理取調図」を箱館奉行所に上申し、道内の山や川の地理図にアイヌ語での地名を明記、道内各地域村落のアイヌ酋長・小使名を明らかにしています。当時のアイヌの風習や実情を調査し、和人による圧政を批判、佐賀藩などの大藩が地域開発に乗り出すのを歓迎しています。島義勇には、クスリ(現:釧路)場を推薦しています。
 明治2年(1869年)新政府より開拓判官となり、蝦夷地をアイヌ伝統に敬意を込めて「北加伊道」を選び、「北海道」と命名し、同じようにして各地の郡名等を選定しています。島義勇の先導役でありました。明治3年開拓使のアイヌ政策の怠慢に抗議して辞職、従五位の官位も返上しています。
 余生を東京で過ごし、自宅の片隅に作った一畳敷の書斎は、その後当時の趣味人を伝え渡り、「一畳敷書斎」として、最終的に現在の国際基督教大学内に移築され、学園祭に特別公開されています。

 *箱館迴補奉行の堀利煕は幕末開港での外交官僚として活躍するも、孤立して荒波にのまれました。蝦夷地巡察で幕閣から評価され遣米使節で世界一周した玉蟲 左太夫は、幕府への忠節に殉じて維新の激動にのまれました。島義勇も、人徳・人望があるが故に明治維新の揺り戻しにのみ込まれてしまいました。市井の人に戻った松浦武四郎だけが風流な余生を送ったことになります。

 島の「北入記」は経済的視線で記録され、多くの絵図もあり、当地での産業・交通・交易に注目しています。幕府の蝦夷地政策や支配役人の不正にも言及していますが、佐賀藩による箱館貿易での具体策も書き留めています。藩主直正の意向だったと思われます。
 一方の玉蟲の「北入記」は、松浦と同じく地理やアイヌ民族及び現地での支配体制を詳しく調査しています。仙台藩が白老陣屋を拠点に、蝦夷地防衛とアイヌ及び和人への民政をすすめる上での調査とも考えられます。二人共にそれぞれの藩を背負っていたことが判ります。
 島義勇と同行した犬塚与七郎は途中で報告のため帰藩し、10月には佐賀藩郡目付・高柳忠吉郎以下藩士が3名箱館を来訪しています。
 島は箱館に帰還後、築城し始めた「五稜郭」を見聞、また箱館台場築造の工法・工費など詳細を記録しています。
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五稜郭 全景.jpg

 島義勇は安政4年(1857年)11月19日、江戸に帰府する堀奉行に同行して、箱館で新造された「箱館丸」に乗船し、試乗航海で12月19日江戸に戻ってきています。この時の詳細を「東洋記」として著しています。この日記には箱館丸の構造・備品などの絵図、宮古などの湾内鳥瞰図も書かれています。
 *箱館丸の説明


 島義勇は安政5年(1858年)帰藩し、その後に蔵方組頭に任じられています。

 幕末期が、佐賀藩は二重鎖国体制の元、藩士の藩外への往来は厳しく制限されていました。しかし一方で、藩主鍋島正直の積極的な富国強兵策の先兵として、多くの弘道館出身者が藩内外で活躍もしていました。
                            つづく 

☆参考資料
① 佐賀市史        https://www.city.saga.lg.jp/main/2599.html
② 佐賀の歴史・文化お宝帳 http://www.saga-otakara.jp/
③ 佐賀市歴史探訪     https://www.city.saga.lg.jp/main/3859.html
④ 島義勇伝:(有)エアーダイブhttp://www.dybooks.jp/
⑤ 国立国会図書館デジタルコレクション - 東西蝦夷山川地理取調図

  
 
 
 

 
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