「思い出!、今を楽しむ!」佐高 [佐高生(1~16回生)寄稿集]
佐高15回生(昭和39年卒)杉山 秀彦
在学時の生徒会活動・運動会・部活動での「思い出写真」です。
1)昭和37年10月~38年9月迄の生徒会活動
・一生懸命仕事してます
・腹減ったので、出前ラーメン・・・ガブリ
・仲良し男子生徒会メンバー
・仲良し女子生徒会メンバー
2)昭和36年体育祭
・男子組体操
・男子応援団
・女子応援団
・思い出深きフォークダンス
3)昭和36年夏休み 生物部の加部島での研究・実習
・加部島小学校で、1週間の合宿
・岩場での植物採取
☆加部島は呼子港の沖500㍍にあり、玄界灘の荒波から港を守る天然の防波堤となっています。
特産品はイカに甘夏などで、甘夏ゼリーは人気商品。江戸期は近海捕鯨の拠点でもありました。
☆平成元年(1989年)4月、呼子の中心地と加部島を結ぶ呼子大橋が完成、交通の便が大きく改善。
☆唐津市(旧呼子町)立加部島小学校は人口減少に伴い、平成23年(2011年)唐津市立呼子小学校へ統合。
■「福岡いちご会」
佐高15回生は、毎年10数人で旅行をしています。
毎年の旅の思い出写真をDVDにしましたので、旅の様子を一部、ご紹介します。
・臼杵・岡城の旅(平成20年)
・霧島・桜島・知覧(平成22年)
・萩・津和野(平成23年)
・松山・道後温泉(平成24年)
・久住 焼肉の旅(平成24年)
・出雲・松江の旅(平成25年)
*福岡栄城会では、同窓会員の方々の投稿をお待ちしております。・特に佐高の諸先輩方からの「思い出」を募っています。投稿よろしくお願いいたします。投稿先 eijo.fukuoka@gmail.com
在学時の思い出と今を楽しむ(佐高) [佐高生(1~16回生)寄稿集]
佐高6回生(昭和30年卒)諸岡 正明
在学時の思い出
私は、城南中学を卒業し、佐賀高校の試験に合格し入学しました。
当時、佐賀高校は、南校舎、西校舎、東校舎の三つに分かれていました。それは、旧成美高女、佐賀第一高校、佐賀高等女学校が昭和23年合併し、佐賀高等学校となっていました。
私が卒業後、昭和37年に西高、北高、東高に分離しています。私が最初の1年学んだ南校舎は、成美の後の校舎でした。
新制佐賀高校(昭和24年~40年)は、1年生は南校舎、2年3年は西校舎で授業を受けていました。学級担任は、1年の時柴田先生、2年川崎先生、3年原先生でした。
当時、佐賀市には公立普通高校は新制の佐賀高校だけで、一学年1000名、全校で3000名、一学年が20~21組まであり、この数は全国一のマンモス高校でした。週刊誌にも取り上げられました。
西校舎の講堂に3000名が一同に会した時は、壮観でした。
当時、校長は宮田虎雄先生で、後に佐賀市長となっておられます。
今を楽しむ
私は佐賀高校を卒業後、九大医学部に進学し、以来、現在まで福岡市近郊に在住しています。
福岡市及びその近郊には、佐賀高校を卒業した同窓生が約55人いて、時々集まっては旧交を温めあっています。その時には、連絡が取れる佐賀や関東の同級生も参加して頂いていました。そして今年、平成29年には大方の同窓生は80歳を超え、定期的に集まるのではなく有志だけ時々集まろうかとなったようです。しかし、多くの同窓生たちは、今後も適宜、佐賀や東京の集まりには、できれば参加したいと考えているようです。
旧制の佐賀中学(新制佐賀高校)から、現在の佐賀西校までの卒業生が年に一度集まる「栄城会」は、とても楽しい会で、幹事は卒業年度順にしており、古い順から新しい卒業年次に移ってきています。
高校卒業後60年以上経ち、最近暇があれば、故郷佐賀のことを思い出し、時間があれば、昔歩き回った場所、多布施川、石井樋、川上峡、古湯温泉、清水の滝、日の隈山、天山そして高校卒業頃できた北山ダムなどにでかけています。
先日、佐嘉神社、松原神社、昔の佐賀高校周囲の堀端や佐賀城址を歩いてみましたが、私が高校生の頃とは随分変わってしまっていました。
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高校時代の良き思い出(佐高) [佐高生(1~16回生)寄稿集]
佐高9回生(昭和33年卒) 紀井 博之
昭和33年3月の或る日、高校入試の日を思い出す。
三十分を経過するとサッサと教室を後にする人達が居る。
制服を着た付属中の生徒である。
少し気持ちがあせり、学力の差を感じる。
数日後、佐賀新聞社で合格発表があり、合格!!
当時の学生数は一学年千人。私の成績は千番目だったのでは・・・。
成章中野球部同級生の大曲君・志津田君、私の三人は合格発表の翌日から練習に参加。
その時の先輩は高野(投手)、江口(捕手)、主将:宮司(一塁手)の方々である。
ところが自分の都合で退部してしまった。
間を置いて軟式野球部の豊増さんが教室に来て「ウチに入らんか!」との誘い。野球小僧の血が騒ぎ即入部。私は中学校よりピッチャーである。
高校二年の県大会では一回戦、佐賀農芸高を7対0で完全試合等が有り佐賀代表に!監督の豊増さんと二人で喜びに涙が溢れた。
九州大会は小倉の豊楽園球場。佐賀、長崎、福岡、大分の四県代表で競い合い。東福岡と対戦し。1対0で勝ち(ノーヒットノーラン)。決勝戦は大分と行い、これも延長十回、1対0で制し全国大会出場決定。
全国大会は大阪の藤井寺球場で行われ、初戦北海高に2対1で破れ、初戦敗退。
大阪迄夜行列車で10時間の旅。グッタリ来たが、思い出深い汽車の旅であった。
☆県立佐賀高等学校硬式野球部は昭和32年第2回全国硬式選手権に出場。対戦相手の「北海高」は第一回より出場、その後も連続出場する程で、北の強豪校でした。
*硬式選手権出場校一覧 http://www.jhbf.or.jp/nanshiki/outing/06-10.html
☆翌年の昭和33年には、硬式野球部が夏の甲子園での全国大会に出場しています。
☆豊楽園球場・・現在のJR小倉駅北側にありました。国鉄小倉駅(現在のJR西小倉駅)が昭和33年3月現在地に移転の為、閉場しています。
*参考資料・・にしてつwebミュージアム http://www.nishitetsu.co.jp/museum/lions/ballpark05.html
☆藤井寺球場・・全国高等学校軟式野球選手権大会が昭和31年(1956年)から昭和55年(1980年)まで開催されました。途中2年間はナイター設備増設に伴い昭和48年(1973年)のみPL野球場開催。プロ野球チーム、近鉄バッフォローズのホームスタジアムでしたが、平成17年(2005年)1月末をもって閉鎖され、平成18年(2006年)8月に解体されてます。
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タグ:軟式野球部
佐中入学の頃 [佐高生(1~16回生)寄稿集]
佐高 3回卒 園田 勲
私は昭和20年佐賀中学に入学した。1学年200人余りだった。戦争中で朝家を出る時は足にゲ-トルを巻き、帽子も服も軍人の姿、途中上級生に会うと立ち止まって、挙手の禮。
佐中の校章は日本一大きい「中」で、朝礼の時校長先生は「敵機が来たらこの「中」の字を反射させて、敵兵の目を眩やませよ。」と言われた。
上級生は2年生だけで、陸軍士官学校か海軍兵学校に進学予定の3・4年生以外は動員に行っていて学校には来ていなかった。昼休みになると、2年生達が我々の教室にやって来て、机に座らせ「頭下げよ!」と我々1年生をしごいた。
運動場では元下士官による木銃を持っての厳しい教練。又学校に残って軍人の学校に入る為に勉強している3・4年生による軍人教育。「整列!!、1年1組の指揮は3年〇組の◎◎がとーる!。」こちらは優秀な教練。佐賀中学は軍人学校で優秀な生徒は高校でなく、陸士か海兵に入学した。戦争中であったが、敵国の言葉である英語は良く勉強させられた。空襲警報のサイレンが鳴ると森へ逃げて英語の単語を勉強した。
佐賀は戦争の影響は比較的に少なく、夜は花火のような焼夷弾、昼は操縦士が見える高さで機銃掃射をした。敵機が去ると日本の偵察機が被害状況を調べる為低く飛んでやって来た。遠くで高射砲の音がしても、とても敵機には当たらない。
「早く降参しなさい」と云う趣旨の長い綺麗な日本語のビラもいっぱい撒かれた。6月19日の福岡大空襲の時は、夜友達の家で勉強していたが、B29の編隊が長い間上空をキーンキーン唸りながら北へ行き、数十分後福岡の空が真っ赤になった。
夏休みになって、我々1組だけ北山に芋作りに動員された。
北山へ行くときは、川上の官人橋(当時は木造で大雨が降るとよく流された)に8時集合。私の実家は東与賀中割ですが、西川副広江の友人が2時に家に来て2人で官人橋まで行ったが、夜空の星特に流れ星が綺麗だった。何時間も夜歩いたのはこの時だけ。佐賀は平和だった。官人橋から道路は砂利道で疲れはしないが、運動靴の為足の裏がとても痛かった。途中南山で弁当を食べ、午後3 時頃北山小学校に着いた。北山は静かだった。
8月15日昼重大放送があると云うので、北山小学校へ帰り、運動場でラジオを聞いたが、雑音で何を云っているか分からなかった。午後又芋作りに行き、帰りに神社の境内に集められて、佐賀から上がって来た例の元下士官から「君達は昼のラジオ放送は何であったか分かったか。戦争に負けたぞ。君達はもう親兄弟とも会えない。米兵は肉食動物だから鶏も片つ端から食べるぞ」。その夜は寝泊まりしている体育館で泣いている友もいた。
10年位前この神社と北山小学校と当時北山にあった旅館を尋ねたが、当時の女将さんから「先生はここに泊まられた」と初めて聞いた。我々は体育館の板の間で雑魚寝だった。夜が明けると、荷物をいっぱい積んだトラックが佐賀からどんどん上かって来た。「何だ、まだ物資は沢山あったんだ。」とつくずく思った。
終戦後、山を降りた時の記憶はない。
数日後佐賀の家に帰ったら、何のことは無い以前と変わらず、母が「南の空に大きい音がしてキノコ雲が上がった」と言つたのが心に残っている。
終戦後教育は180度変わったが、佐中のレベルは高かった。新生高校になって学生数も増えた事もあろうが、中学3年3学期で習った事を高校1年でやっていた。現在は、昔の佐中かそれ以上のレベルになっているだろう。
私は家の事情で佐高3回生だが、佐中1年の時北山で1ヵ月寝食を共にし終戦を迎えた2回生特に1組の友達が懐かしい。
*東与賀中割は、現在「東与賀街大字下古賀」になります。「中割公民館」から北山小学校迄を当時の徒歩ルートを推測して検索しますと、37kmの距離となります。直行で8時間強かかります。旧制中学校の1年生は、12歳か13歳です。
*集合場所の「官人橋」は、今の「赤い鉄橋の官人橋」の先代の頃ですので、200m手前にある「ユースピア入口」バス停辺りに架橋されていました。現在記念碑が建立されています。 *「南山」は当時小城郡南山村、昭和31年9月に佐賀郡小関村と小城郡南山村、北山村が合併して佐賀郡富士村となっています。古湯・熊の川温泉の手前にあたる富士町大字下熊川に、九州電力南山発電所があり旧村名を留めています。
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タグ:佐賀中学校
佐中から佐高へ!戦争末期から戦後が青春時代! [佐高生(1~16回生)寄稿集]
佐高2回生 中島 洋
私は昭和20年4月に、旧制佐賀中学校に入学しました。
戦争末期であり、上級生の姿はなく、新二年生が上級生風を吹かせていました。五年生は実質存在しなかったと思われます。三、四年は軍需工場へ動員され、在校されていなかったのです。
何時であったか時期ははっきり記憶していませんが、二年生が全員居なくなりました。先生から通信兵として、徴用されたと知らされました。
私達も食糧難から干拓地や金立山の開墾、農家への麦刈り奉仕等に、追われていました。
学校では運動場の塀に沿って耕され、南瓜や甘藷等が植えられていました。
敗戦迄の一時期、一年生も飛行場の爆撃跡の整備の為、交代で動員されていたのです。
中学校には軍事訓練の為、配属将校が配属されていたのですが、末期にはその人員もなくなり、購買部の職員であった方が、昔、下士官であったことから、指導されることとなる一幕もありました。
戦争が終わると、動員組も帰校し、軍隊からも続々と帰還され、大変な賑わいとなりました。
更に日時を経て、中国・朝鮮・台湾等から引き揚げた学生が転入して来たのです。
混乱が続いているある日の朝礼で、校長先生が訓示を行っていたのですが、その中で「マッカーサーさん」がと言われた時、ブーイングが起り止りませんでした。
その後、四年生を中心にストライキが起りました。私達低学年には内容は知らされないまま。終息していました。
インフレはひどく。物資はなく、パン一個買うにも食券が無いと買う事も出来ない有様でした。
学制の変更があり、新制中学生となり、男女共学へと進んで行きました。 *スカーフの女性は成美、他の女性は高女出身。男性の服装も、まちまちであった。
八十も半ばとなった今、仲良く福岡地区の同期会を行っています。
*佐中・佐高、学校変革より
昭和20年(1945年)
・3月 戦時特例として5・4年生を同時に卒業させる。
・8月 4年生は長崎県川棚海軍工廠、3年生は大日本化学諸富工場(現在、味の素(株)佐賀工場) に動員中であった。
*福岡栄城会では、同窓会員の方々の投稿をお待ちしております。・特に佐高の諸先輩方からの「思い出」を募っています。投稿よろしくお願いいたします。投稿先 eijo.fukuoka@gmail.com
タグ:佐賀中学校
コメント頂きました。 [佐高生(1~16回生)寄稿集]
当会HPに関東からコメントを頂きましたので、ご紹介いたします。
S37年大学受験のため上京して以来故郷佐賀を離れ、現在北関東の茨城県に住み着きその間中・高校の同窓会に出席する数回帰郷しただけです。
佐賀高校や城南中学の同級生との交流は東京で続いて今日に至っています。
小生は土浦市に在住し趣味の水彩画を楽しむ気ままな日常を過ごしていますが、水彩画のブログを作り作品を掲載しております。
遥か彼方の北関東で描いている作品を見て頂ければ幸いです。
これからもこのHPを懐かしく拝見させて頂きたいと思います。
昭和37年卒・佐高13回生 高島徹
参議院議員選挙で故郷佐賀から当選された福岡さんの経歴を調べていて、この福岡同窓会のHPの存在を知りました。早速アクセスして拝見すると高校時代過ごした三年間のことが記事に溢れていて懐かしく拝見致しました。S37年大学受験のため上京して以来故郷佐賀を離れ、現在北関東の茨城県に住み着きその間中・高校の同窓会に出席する数回帰郷しただけです。
佐賀高校や城南中学の同級生との交流は東京で続いて今日に至っています。
■ 残雪の白馬 ■
小生は土浦市に在住し趣味の水彩画を楽しむ気ままな日常を過ごしていますが、水彩画のブログを作り作品を掲載しております。
遥か彼方の北関東で描いている作品を見て頂ければ幸いです。
■ 「趣味水彩」 ■
↓クリック
■ 稲田禅坊 西念寺 ■
追伸、県内には小生以外に37年卒の同級生が3人おられますが、それぞれ元気で第二の人生を過ごして居られます。これからもこのHPを懐かしく拝見させて頂きたいと思います。
■ 佐賀城 鯱の門 ■
同窓からの作品を募集しています絵画・写真など趣味の作品を上記のように、同窓に紹介できます。投稿先 eijo.fukuoka@gmail.com*先ずは、佐中・佐高・西高の卒業回生・卒業年・氏名を明記の上、投稿して頂ける内容(例:写真50枚・カラー)をお知らせください。HP運営委員会より、改めてメール致します。
かつて、ファイヤーストームを昼間に実施したことがある! [佐高生(1~16回生)寄稿集]
今年は9月9日(金){台風12号の為7日を変更}に母校にて恒例のファイヤーストームが開催されます。
母校沿革に拠りますと、昭和25年に旧制佐高の伝統を受け継ぎ始められたもので、60年を超えるイベントとなっています。
ところで、「昭和29年10月 学校祭の前日、ファイヤーストームを(昼間)実施」との不思議な記載があります。
つきましては、佐高8回生HP「佐高八期会ホームページ」に、その原因と如何にして「夜間ストーム」に戻したかを簡潔に書かれたエッセイがアップされていましたので、著者の許可を頂き、転載いたします。
当時、旧制高校生に憧れて新制佐高で復活させたファイヤーストームだったが、 数年前に先輩方の当時の副校長をプールに放り込むという勇み足があり、 以来夜間ストームが禁止されていた。 止むを得ずファイヤーストームを体育祭の昼休みの真っ昼間に実施する有様で夜間ストーム の実現は我々当時の男子佐高在校生の悲願だった。
私は佐高2年時に、佐高祭の前夜祭としての「夜間ストームの」実現を公約して立候補、 多数の支持を得て総務委員長に当選した。 委員長として「夜間ストーム」の実現のため学校側との折衝を開始したが、 学校側のガードが固くなかなか進まない。
当時の学校側は我々の先輩方が起こした不祥事を考え「夜間ストーム」などとんでもないという。 生徒側は昼間のファイヤーストームなどナンセンスと団体交渉さながらに毎日学校側と交渉した。 この間我々の本気度を表すために、当時佐高祭で人気だったバザー券の返上運動を起こすとか、 果ては佐高祭のボイコットとかの声まで上がり、生徒側が抵抗した。
結局この年は佐高祭の前夜祭として16時~18時に「薄暮ストーム」と言う形で妥協した。
我々の願望の実現に一歩近づき、私が3年時の翌31年度にはまた同じような交渉を繰り返し後、 最終的に「夜間ストーム」が実現した。
即ちある知恵者のアイディアで佐高祭の前夜祭として佐賀測候所が発表する正式な「日没時間」 から2時間のストーム実施と言う極めて科学的で分かりやすい結論だった。
これで数年間に亘った夜間ストーム騒動は決着を見たが、 私の高校生活の心身の大半を捧げた大きな出来事で今思い出しても興奮してくるような一連の出来事だった。
面白いことにこのストームが日没時間から2時間と言うルールで西高、 北高で今なお延々と続いているとの事、驚きと共に心の中では快哉を叫びたい気持ちだ。
■併せて、卒業50周年記念誌に石井先輩が投稿されたエッセイをご紹介します。
もう50年も経ってしまった。昭和29年4月佐高の門をくぐったが、考えてみると昭和29年と言えば、終戦から10年も経っていない、いわばまだ混乱の時代だった筈だ。しかし振り返ってみれば我々の高校時代は物質的には恵まれなかったとしても、心豊かな楽しい時代だった。
当時の佐高はご承知のように1学年20級1000人、全校で3000人という今では考えられないマンモス校だった。全校生徒が入れる講堂はなく全校集会は運動場という有様で、校舎も3つに分かれていた。
教師の思いで
1年の時の担任は国語の犬塚先生、2年時は数学の元村先生、3年時は小寺先生それぞれに思い出深い。犬塚先生は同期の犬塚君のお父さん、元村先生は中学時代から教えを受けていたし、小寺先生には説教ばかり受けていてそれぞれ思い出深い。始業のベルと同時に現れる英語の「消防車」こと桜井先生「星落秋風五丈原」を教えて貰った漢文の江頭先生、後述のストームの件で心配を掛けた小日向先生、生徒会の世話役だった田中(文六)先生、小野先生も忘れがたい。3000人の生徒だから先生も多分150人を越えていたのではと思う。3年間で一体何人の先生に教えを受けたのだろうか。宮田校長の「天皇」に始まり、エボナイトのように色が黒いからと「エボ」、世界史の「部隊長」体育の「芋ン子」、化学の「ション八」生物の「ルート8」等々のニックネームも本名は忘れても忘れていない。
新聞部生活
1年の時は新聞部に所属した。新聞部の正式名称は「佐高新聞編集局」というもので何とも厳めしい呼び名で、部室はあこがれの西校舎の総務室の隣にあった。
当時の新聞作成は部員数人で何の制約もなく自由に取材が出来何でも書くことが出来たが、割と健全で特に粋がって反体制的な事を書くことも無かった。
新聞部時代の最高の思いではs29年6月にノーベル賞の「湯川秀樹」博士にインタビューしたことだ。どういう経緯かは忘れたが、博士が佐高講堂で講演をされその後新聞部の記者として校長室でお目にかかりインタビューした。何をどうお尋ねしたかはすっかり忘れたが、当然この記事が1面トップを飾った。
その次にやはり講演に来られた大先輩「高田保馬」先生にもインタビューしたのも思いで深い。佐高の新聞記者として1年生ながら大役を仰せつかったのは全くのラッキーといえる。しかし当時年10回のタブロイド版の新聞発行はかなり厳しい負担で、締め切り間際には原稿書きで何回も徹夜をしたが、家が近かったので良く母が心配して夜食を持ってきてくれた。
当時新聞の印刷はどういう経緯か知らないが、福岡の西日本新聞社で印刷していた。原稿を書きあげ、割付を終ると原稿を新聞社に送り、ゲラが出来上がる頃を見計らって部員4~5人で福岡に出張、午前中に校正を終わると午後一杯夕方までが自由時間で良く皆で中州や天神で映画見物、夕方新聞社に戻ると印刷が出来上がっている。
それからが最大の難行が始まり刷り上がったばかりの全校3000人分の新聞を手分けして荷造りし、それぞれ肩に担いで市内電車、汽車、バスを乗り継ぎ佐高まで新聞を持って帰った。勿論50年前の事で宅急便などと言う便利なものがない時代の力仕事だったが、汽車賃、食事など所謂官費だったので喜んでやっていたのを思い出す。
1年生の時には朝日新聞社、西日本新聞社、北九州大学の高校新聞コンクールに入賞し、出張扱いで表彰式に行ったのも誇らしい思い出になっている。
総務委員長
1年生の終わりの頃生徒会長のI先輩から次期生徒会長(総務委員長)の選挙に立候補するよう口説かれた。新聞部室が総務室の隣だったので総務の様子は大体判っていたし、中学時代にも生徒会長を経験していたので思い切って立候補した。選挙は3人が立候補し争うことになり、私は“夜間ストーム”を公約として選挙に臨んで首尾良く当選した。
直ちに仲間の総務委員の人選即ち「組閣」に入ったが、市内主要3校のバランスを取った方が良かろうと言うことで、成章、城南、附中から選ぶことにして皆さんの推薦を受けた人を訪ねていって入閣を依頼した。勿論自分では喜び勇んで、それまでは遠くから眺めるだけで話すチャンスも無かった、我が“憧れの君”に真っ先に交渉に行き快諾を得、総務委員会のメンバーに入って貰った。当時人には言えなかったがここらが本音だったのかも知れないし彼女と親しくなれたのは本当に嬉しかった。
総務委員会の活動は10人と仲間と一緒に楽しかった。いつも放課後は西校舎の西の隅にあった委員会室にたむろしてダベったり寮歌や応援歌など高吟したりで過ごしながら、良くガリ版を切った。なにせ60クラスにお知らせを出すのもコピーのない当時はガリ切りが大きな仕事だった。
私は悪筆でガリ切り要員には全く役に立たず、委員の“我が君”は字がうまく大活躍してくれて人選が正しかったと密かに快哉を叫んでいた。
総務時代には、視察旅行と称して熊本、鹿児島の高校を訪ねて廻ったのが最大の思い出かも知れない。学校の授業時間中に観光をかねて旅行出来るのだから何とも楽しかった。
夜間ストーム
佐高時代の最大の思いでは何と言っても「夜間ストーム」だ。「夜間ストーム」を最大の公約として総務委員長に当選した私だったが、「ストーム」は前期委員長私の任期中の行事ではなく、後期委員長のM君の任期中の行事であり公約しながら自分では直接手を出せないもどかしさがあった。
そこで妙案考え「ストーム実行委員会」を立ち上げ私はこのリーダーとして「夜間ストーム」の実現を目指した。佐高のストームは我々の数年前の先輩が夜間ストームの後荒れて問題を起こし、以降数年間「夜間」のストームが学校側から禁止され、体育祭の昼休みつまり真っ昼間にファイヤーストームをやっている有様だった。
それを是非「夜間」のファイヤーストームとして実施したいというのが我々の悲願であった。
「実行委員会」の名の下に学校側に佐高祭の前夜祭としての「夜間ストーム」の許諾を要求しあの手この手で折衝した。2ヶ月近く続いた折衝は連日、時には深夜まで続き、非常手段として一旦売り出していたバザー券の返上運動を実施したり、生徒会議長団が辞任してみたりといろんな手段で学校側の弾圧?に対抗した。
今思えば良くも馬鹿馬鹿しい事をやったと言う気もするが当時は本当に真剣だった。最終的には学校側の「薄暮ストーム」即ち日没時(気象台の発表の日没時刻)にストームを開始すると言う提案で妥協が成立、我々は「夜間ストーム」を断念し「薄暮ストーム」で涙を飲んだ。
最後は学校始まって以来と言う始めてという授業中に生徒議会を開催して「薄暮ストーム」を了承すると言うおまけまで付いて交渉は終わり、それ以降の「薄暮ストーム」方式が確立された。ちなみにこの日没から始める「薄暮ストーム」方式は長い間、西高になっても長く継承されていると言うから驚きだ。
いよいよ鋭意準備を進めることになり、1年坊主に対する歌と踊りの演習、リヤカーを引いて佐賀駅からの枕木運搬、薪集め、重油の購入、リーダー、警備陣の編成等の準備作業で毎日放課後を忙しく過ごした記憶がある。
当日11月9日夕、我々リーダーは剣道着に袴姿でストーム旗を持ち参集、日没時きっかりに円陣の真ん中のファイヤー点火、O君の「いざや歌はむかな我等が若き日の歌を、いざや踊らむかな若き日の感激を」の高らかな巻頭言でストームが開始された。
日が暮れ夜の闇の訪れとともにファイヤーは天も焦がせと燃え上がり、いやが上にも気分は高潮し「佐高讃歌」「佐高逍遥歌」「佐中校歌」「旧制佐高寮歌」「デカンショ節」「北筑遠征歌」「戦勝歌」「旅順校寮歌」等々歌い且つ踊りまくり、それまでの苦労を吹き飛ばした。
2時間後学校側との協定通りストームは整然と終了した。ちなみにこれらの歌は50年後の今でもはっきり記憶に残っており、「佐高逍遥歌」を8番まで宙で完全に歌えるのは若き日の言い思い出だ。
「夜間ストーム」終了後、火の始末と後かたづけの名目で、燃え残りの「ファイヤー」の廻りに我々リーダーが集まった。浪人中だったいI先輩も来られ、自然に今で言う2次会となった。火事場の跡みたいな残り火の周りに消火用バケツを椅子代わり座り込み、再びストーム歌を高唱し、と共にそれまでの学校側との交渉の苦労など語り合いながらとうとう夜を明かした。
その時のフライパン代わりに逆さまのバケツの底で焼いて食べた薩摩揚げの美味かった事は、その夜の楽しかった事と併せて今でも良く思い出す。
終わりに
いやはや思い起こすと切りがない。佐高の思い出を楽しみながら書いてきたが、ここらで終るとしよう。
佐高1,2年当時の記憶が多かったが3年の時は何をしていたのかあまり記憶がない。多分人並みに受験で悩んでいたのかな。
ともあれ佐高時代が人生で最も思いでの深い期間だったことは間違いない。だからこそ最近でも当時の仲間と時々会いたくなるのだろう。
母校沿革に拠りますと、昭和25年に旧制佐高の伝統を受け継ぎ始められたもので、60年を超えるイベントとなっています。
ところで、「昭和29年10月 学校祭の前日、ファイヤーストームを(昼間)実施」との不思議な記載があります。
つきましては、佐高8回生HP「佐高八期会ホームページ」に、その原因と如何にして「夜間ストーム」に戻したかを簡潔に書かれたエッセイがアップされていましたので、著者の許可を頂き、転載いたします。
佐高時代の思い出
佐高八期生・昭和32年3月卒業 石井 浩四郎
私が3校分割前の佐高3年時に、創立80周年の記念祭に参加したことを思い出し、 この時の記念誌「栄城」を読み返して、一挙に懐かしさがこみあげてきた。私はこの記念誌には昭和31年、我々の3年時に実現した「夜間ストーム」について、 若き日の感慨を率直に表した一文を載せている。 当時、旧制高校生に憧れて新制佐高で復活させたファイヤーストームだったが、 数年前に先輩方の当時の副校長をプールに放り込むという勇み足があり、 以来夜間ストームが禁止されていた。 止むを得ずファイヤーストームを体育祭の昼休みの真っ昼間に実施する有様で夜間ストーム の実現は我々当時の男子佐高在校生の悲願だった。
私は佐高2年時に、佐高祭の前夜祭としての「夜間ストームの」実現を公約して立候補、 多数の支持を得て総務委員長に当選した。 委員長として「夜間ストーム」の実現のため学校側との折衝を開始したが、 学校側のガードが固くなかなか進まない。
当時の学校側は我々の先輩方が起こした不祥事を考え「夜間ストーム」などとんでもないという。 生徒側は昼間のファイヤーストームなどナンセンスと団体交渉さながらに毎日学校側と交渉した。 この間我々の本気度を表すために、当時佐高祭で人気だったバザー券の返上運動を起こすとか、 果ては佐高祭のボイコットとかの声まで上がり、生徒側が抵抗した。
結局この年は佐高祭の前夜祭として16時~18時に「薄暮ストーム」と言う形で妥協した。
我々の願望の実現に一歩近づき、私が3年時の翌31年度にはまた同じような交渉を繰り返し後、 最終的に「夜間ストーム」が実現した。
即ちある知恵者のアイディアで佐高祭の前夜祭として佐賀測候所が発表する正式な「日没時間」 から2時間のストーム実施と言う極めて科学的で分かりやすい結論だった。
これで数年間に亘った夜間ストーム騒動は決着を見たが、 私の高校生活の心身の大半を捧げた大きな出来事で今思い出しても興奮してくるような一連の出来事だった。
面白いことにこのストームが日没時間から2時間と言うルールで西高、 北高で今なお延々と続いているとの事、驚きと共に心の中では快哉を叫びたい気持ちだ。
* ファイヤーストームの思い出! 投稿、お待ちしております!!
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■併せて、卒業50周年記念誌に石井先輩が投稿されたエッセイをご紹介します。
佐高卒業50年
もう50年も経ってしまった。昭和29年4月佐高の門をくぐったが、考えてみると昭和29年と言えば、終戦から10年も経っていない、いわばまだ混乱の時代だった筈だ。しかし振り返ってみれば我々の高校時代は物質的には恵まれなかったとしても、心豊かな楽しい時代だった。
当時の佐高はご承知のように1学年20級1000人、全校で3000人という今では考えられないマンモス校だった。全校生徒が入れる講堂はなく全校集会は運動場という有様で、校舎も3つに分かれていた。
*西校舎:旧佐賀中学校 東校舎:旧佐賀高等女学校 南校舎:旧成美高等女学校
1年次には旧佐中の西校舎には行けないことが判っていたが、せめて東校舎にと思っていたがこれも見事にはずれ、最悪のぼろ校舎南校舎だったのでがっかり。それでも珍しく男女共学クラスだったのと、クラスは違っても同じ南校舎に中学時代からの“憧れの君”がいたのは幸せだった。窓越しに彼女の姿を追い続けたものだった。特に体育館で活躍している姿が私の席からちらちらと見え、その時間はいつもよそ見の連続だった。教師の思いで
1年の時の担任は国語の犬塚先生、2年時は数学の元村先生、3年時は小寺先生それぞれに思い出深い。犬塚先生は同期の犬塚君のお父さん、元村先生は中学時代から教えを受けていたし、小寺先生には説教ばかり受けていてそれぞれ思い出深い。始業のベルと同時に現れる英語の「消防車」こと桜井先生「星落秋風五丈原」を教えて貰った漢文の江頭先生、後述のストームの件で心配を掛けた小日向先生、生徒会の世話役だった田中(文六)先生、小野先生も忘れがたい。3000人の生徒だから先生も多分150人を越えていたのではと思う。3年間で一体何人の先生に教えを受けたのだろうか。宮田校長の「天皇」に始まり、エボナイトのように色が黒いからと「エボ」、世界史の「部隊長」体育の「芋ン子」、化学の「ション八」生物の「ルート8」等々のニックネームも本名は忘れても忘れていない。
新聞部生活
1年の時は新聞部に所属した。新聞部の正式名称は「佐高新聞編集局」というもので何とも厳めしい呼び名で、部室はあこがれの西校舎の総務室の隣にあった。
当時の新聞作成は部員数人で何の制約もなく自由に取材が出来何でも書くことが出来たが、割と健全で特に粋がって反体制的な事を書くことも無かった。
新聞部時代の最高の思いではs29年6月にノーベル賞の「湯川秀樹」博士にインタビューしたことだ。どういう経緯かは忘れたが、博士が佐高講堂で講演をされその後新聞部の記者として校長室でお目にかかりインタビューした。何をどうお尋ねしたかはすっかり忘れたが、当然この記事が1面トップを飾った。
その次にやはり講演に来られた大先輩「高田保馬」先生にもインタビューしたのも思いで深い。佐高の新聞記者として1年生ながら大役を仰せつかったのは全くのラッキーといえる。しかし当時年10回のタブロイド版の新聞発行はかなり厳しい負担で、締め切り間際には原稿書きで何回も徹夜をしたが、家が近かったので良く母が心配して夜食を持ってきてくれた。
当時新聞の印刷はどういう経緯か知らないが、福岡の西日本新聞社で印刷していた。原稿を書きあげ、割付を終ると原稿を新聞社に送り、ゲラが出来上がる頃を見計らって部員4~5人で福岡に出張、午前中に校正を終わると午後一杯夕方までが自由時間で良く皆で中州や天神で映画見物、夕方新聞社に戻ると印刷が出来上がっている。
それからが最大の難行が始まり刷り上がったばかりの全校3000人分の新聞を手分けして荷造りし、それぞれ肩に担いで市内電車、汽車、バスを乗り継ぎ佐高まで新聞を持って帰った。勿論50年前の事で宅急便などと言う便利なものがない時代の力仕事だったが、汽車賃、食事など所謂官費だったので喜んでやっていたのを思い出す。
1年生の時には朝日新聞社、西日本新聞社、北九州大学の高校新聞コンクールに入賞し、出張扱いで表彰式に行ったのも誇らしい思い出になっている。
総務委員長
1年生の終わりの頃生徒会長のI先輩から次期生徒会長(総務委員長)の選挙に立候補するよう口説かれた。新聞部室が総務室の隣だったので総務の様子は大体判っていたし、中学時代にも生徒会長を経験していたので思い切って立候補した。選挙は3人が立候補し争うことになり、私は“夜間ストーム”を公約として選挙に臨んで首尾良く当選した。
直ちに仲間の総務委員の人選即ち「組閣」に入ったが、市内主要3校のバランスを取った方が良かろうと言うことで、成章、城南、附中から選ぶことにして皆さんの推薦を受けた人を訪ねていって入閣を依頼した。勿論自分では喜び勇んで、それまでは遠くから眺めるだけで話すチャンスも無かった、我が“憧れの君”に真っ先に交渉に行き快諾を得、総務委員会のメンバーに入って貰った。当時人には言えなかったがここらが本音だったのかも知れないし彼女と親しくなれたのは本当に嬉しかった。
総務委員会の活動は10人と仲間と一緒に楽しかった。いつも放課後は西校舎の西の隅にあった委員会室にたむろしてダベったり寮歌や応援歌など高吟したりで過ごしながら、良くガリ版を切った。なにせ60クラスにお知らせを出すのもコピーのない当時はガリ切りが大きな仕事だった。
私は悪筆でガリ切り要員には全く役に立たず、委員の“我が君”は字がうまく大活躍してくれて人選が正しかったと密かに快哉を叫んでいた。
総務時代には、視察旅行と称して熊本、鹿児島の高校を訪ねて廻ったのが最大の思い出かも知れない。学校の授業時間中に観光をかねて旅行出来るのだから何とも楽しかった。
夜間ストーム
佐高時代の最大の思いでは何と言っても「夜間ストーム」だ。「夜間ストーム」を最大の公約として総務委員長に当選した私だったが、「ストーム」は前期委員長私の任期中の行事ではなく、後期委員長のM君の任期中の行事であり公約しながら自分では直接手を出せないもどかしさがあった。
そこで妙案考え「ストーム実行委員会」を立ち上げ私はこのリーダーとして「夜間ストーム」の実現を目指した。佐高のストームは我々の数年前の先輩が夜間ストームの後荒れて問題を起こし、以降数年間「夜間」のストームが学校側から禁止され、体育祭の昼休みつまり真っ昼間にファイヤーストームをやっている有様だった。
それを是非「夜間」のファイヤーストームとして実施したいというのが我々の悲願であった。
「実行委員会」の名の下に学校側に佐高祭の前夜祭としての「夜間ストーム」の許諾を要求しあの手この手で折衝した。2ヶ月近く続いた折衝は連日、時には深夜まで続き、非常手段として一旦売り出していたバザー券の返上運動を実施したり、生徒会議長団が辞任してみたりといろんな手段で学校側の弾圧?に対抗した。
今思えば良くも馬鹿馬鹿しい事をやったと言う気もするが当時は本当に真剣だった。最終的には学校側の「薄暮ストーム」即ち日没時(気象台の発表の日没時刻)にストームを開始すると言う提案で妥協が成立、我々は「夜間ストーム」を断念し「薄暮ストーム」で涙を飲んだ。
最後は学校始まって以来と言う始めてという授業中に生徒議会を開催して「薄暮ストーム」を了承すると言うおまけまで付いて交渉は終わり、それ以降の「薄暮ストーム」方式が確立された。ちなみにこの日没から始める「薄暮ストーム」方式は長い間、西高になっても長く継承されていると言うから驚きだ。
いよいよ鋭意準備を進めることになり、1年坊主に対する歌と踊りの演習、リヤカーを引いて佐賀駅からの枕木運搬、薪集め、重油の購入、リーダー、警備陣の編成等の準備作業で毎日放課後を忙しく過ごした記憶がある。
当日11月9日夕、我々リーダーは剣道着に袴姿でストーム旗を持ち参集、日没時きっかりに円陣の真ん中のファイヤー点火、O君の「いざや歌はむかな我等が若き日の歌を、いざや踊らむかな若き日の感激を」の高らかな巻頭言でストームが開始された。
日が暮れ夜の闇の訪れとともにファイヤーは天も焦がせと燃え上がり、いやが上にも気分は高潮し「佐高讃歌」「佐高逍遥歌」「佐中校歌」「旧制佐高寮歌」「デカンショ節」「北筑遠征歌」「戦勝歌」「旅順校寮歌」等々歌い且つ踊りまくり、それまでの苦労を吹き飛ばした。
2時間後学校側との協定通りストームは整然と終了した。ちなみにこれらの歌は50年後の今でもはっきり記憶に残っており、「佐高逍遥歌」を8番まで宙で完全に歌えるのは若き日の言い思い出だ。
「夜間ストーム」終了後、火の始末と後かたづけの名目で、燃え残りの「ファイヤー」の廻りに我々リーダーが集まった。浪人中だったいI先輩も来られ、自然に今で言う2次会となった。火事場の跡みたいな残り火の周りに消火用バケツを椅子代わり座り込み、再びストーム歌を高唱し、と共にそれまでの学校側との交渉の苦労など語り合いながらとうとう夜を明かした。
その時のフライパン代わりに逆さまのバケツの底で焼いて食べた薩摩揚げの美味かった事は、その夜の楽しかった事と併せて今でも良く思い出す。
終わりに
いやはや思い起こすと切りがない。佐高の思い出を楽しみながら書いてきたが、ここらで終るとしよう。
佐高1,2年当時の記憶が多かったが3年の時は何をしていたのかあまり記憶がない。多分人並みに受験で悩んでいたのかな。
ともあれ佐高時代が人生で最も思いでの深い期間だったことは間違いない。だからこそ最近でも当時の仲間と時々会いたくなるのだろう。