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福岡栄城会 の成りたち [西高2回生寄稿集]

第8代会長  清村 克行(西高2回生)

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開催会場に掲げる横断幕、「福岡栄城会」指定書体

 昭和47年8月からここ福岡でのサラリーマン時代は、眼の前の仕事に追われ、人の世話などすることも出来かった。昭和60年12月、自分の会社を設立。独立して初めて周りが見えてくるようになる。何か人のためにできることはないか・・・
 
 昭和61年の年始めに、福岡にも佐賀西高校の同窓会を作ろうと思い立ち、本部の同窓会名簿から福岡近郊にいる「自営で、転勤の少ない人」を各学年幹事に半強制的に選び、彼らを中心に福岡近郊在住者(筑後川から遠賀川の範囲)に案内はがきを出した。
 その年の11月に「佐賀西高等学校福岡同窓会」の設立総会を開催し、会長に1回生の最所憲治先輩、私が副会長(事務局兼任)、会計に3回生の牟田哲朗君という体制でスタートしました。昭和62年11月に「佐賀西高等学校福岡同窓会会員名簿(掌握会員数630名)」も完成させた。
 
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昭和62年11月の西高名簿

 当時はまだ、佐賀中学は栄城同窓会福岡支部、佐賀高校は佐賀高校同窓会福岡支部など、別々に開催されておりました。
 各地の「栄城関係三校の同窓会」の合流の流れを見てみると、最初は、関西栄城同窓会です。早々と昭和56年に三校が一体化しておりました。そして東京栄城同窓会が昭和61年に一体化しており、本部佐賀は、他地域の動向をみて、平成10年から一体化の流れが始まり、2年の準備期間を経て平成12年10月に一体化しました。
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 福岡では、西高の福岡同窓会を立ち上げた後、私が別の佐賀の集まりである「福岡市佐賀県人会」の関係で、中央区の高砂(当時同じ町内)に住んでおられた森 泉先輩(佐高1回生・森医院 院長・佐賀高校同窓会福岡支部長だった思う)と主治医として懇意させて頂いておりました。その森先生から西高同窓会の三役である3人が、佐賀中学の会合に誘われました。佐賀中学の同窓会世話人会(通称、すきやき会)が真崎寅二郎先輩(通商産業省勤務・昭和8年卒)の関係で博多駅東の合同庁舎近くの通産省の関連施設「九州商工協会筑紫寮」で不定期に開催されておりました。中学同窓会の主な行事や事案が協議されていたように思います。
 
 西高福岡同窓会という「受け皿」ができたこともあり、そのすきやき会で三校合流の話がでて、一体化への協議が開始されました。佐賀中学の先輩の中には、「佐高とか、西高とかに、伝統ある『栄城』の名前は使わせない」という意見もありましたが、当時の佐賀中学栄城同窓会福岡支部長であった永倉三郎氏(九電会長)の『栄城の流れを継いでいるのは、佐高と西高だし、どうせ先々お世話になるのだから、早めに合流した方がいい』という、鶴の一声で合流が決定しました。そして福岡は本部の下部組織ではないと、支部ではなく「福岡栄城会」と名付けられました。
 
 昭和63年に合流の準備にはいり、平成元年8月に「第1回福岡栄城会総会」を開催することが出来ました。会長に佐賀中学の永倉三郎先輩(昭和2年・第43回卒)、副会長に佐賀中学の真崎寅二郎先輩(昭和8年・第49回卒)、同じく副会長に佐賀高校の森 泉先輩(昭和25年・佐高1回卒)、そして同じく副会長に佐賀西高の最所憲治先輩(昭和41年・西高1回卒)という体制でスタートです。掌握会員数は佐賀中学約500名、佐高約1700名、西高約600名という大所帯でした。30年前のスタート当時は、先輩たちは元気で、総会出席者160名の半数近くが佐賀中学で、次いで佐高生、西高生は20余名と寂しいものでした。
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第4回・当時の会場配布レジメ(コピーのホッチキス止め)
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第5回の打合せ用レジメ

 
 佐賀中学、佐高、西高からそれぞれ年次の当番幹事を出し、順送りで開催してきました。佐賀中学同窓会と佐高同窓会はスタートの時から一体化しておりましたが、西高同窓会はまだ単独でも開催しており(平成3年、平成8年、平成14年、平成19年に開催)、当番幹事が西高生のみとなる平成20年にやっと完全に一体化が出来ました。「西高のみでやっていけるか」と心配しましたが、無事引継ぎが出来て安心しました。
 そしてその平成20年に一体化の証として、『福岡栄城会の横断幕』は佐高16回生の草場桂子さんが平成19年の佐高最後の当番幹事のとき揮毫された横断幕を基に作成し、また『福岡栄城会旗』は、本校の校章の「高」の代わりに「栄城」を中心にカチガラス3羽(佐中・佐高・西高)で囲み、開校以来の教育方針である「鍛身養志」「質実剛健」を基に私がデザインして作成し、毎年の同窓会総会最後の「引継式」の際に、次回当番幹事へと引き継いでいます。
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「福岡栄城会旗」

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次回当番幹事への「福岡栄城会旗」引継ぎ式

 現在は、60歳という還暦の年に当番幹事となり、50歳、40歳と三回期生合同の実行委員会で、企画・運営され、開催されています。

 縁あって、同じ学び舎で3年間を過ごしただけの仲間たち。だからこそ、縁深き仲間たち。学年が同じ同級生という「横糸」と、年次の離れた同窓生、先輩と後輩という「縦糸」は、140余年もの歴史的重みをもち、日本の各地に「栄城山脈」として根を張って、広く厚く織り込まれ、脈々と連なっている仲間たち。
 同窓会は伝えてくれる人がいて次に繋がっていき、支えてくれる人がいて次に受け継がれていくものです。
令和 元年9月    当時を知る者としての記録です。


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「思い出」&「記憶」 [西高2回生寄稿集]

西高2回生 田 中  隆

 母校を旅立ってから半世紀、在学時の思い出、さてと考えていました。
 学校から約1 0km離れていた神埼から通学してたので入学当時は学校の行き帰りだけで精一杯でした。
 そう言えば何年生の時と考えたら忘れてしまったが友人に誘われて【 図書部】と言ってたクラブに所属してたことを思い出しました。
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 部室は図書室の一角にありそこに部員が集まりわいわいがやがやと、何かがあるわけではなしに話してた事を思い出しました。
 たまに読後感想会が開かれ、それぞれが意見を出し合い、和やかな雰囲気がありました。
 ある時、 小林多喜二の蟹工船が題材になり感想を求められて、 チンプンカンプンな発言をし失笑をかってしまった事を覚えてます。
 今思い出せば苦いではで は な く 淡 し 颯い 出 で す 。
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私を惹きつける台湾―台湾に残る「日本精 神」と「日本建築物」 [西高2回生寄稿集]

佐賀西高二回生 早川 悟


 最近の交通機関には必ず優先席が設けられていますが、その優先席に若者や健常者が堂々と座って居り、体の不自由な人が乗ってきても知らん顔をしている情景をよく見かけます。そんな時、私は暗い気分になると同時に自分の高校時代を思い出します。高校時代、私は三田川(現在:吉野ヶ里町)から佐賀までバス通学をしていましたが、ご老人や身体の不自由な方を見かけたら必ず席を譲っていたと記憶しています。当時は優先席みたいな特別な席は設けられてはいなかったと思います。今では必ず優先席が設けられており、優先席と分かるように表示されています。それにも関わらず、身体が不自由な人が乗ってきても、スマホをいじって知らん顔をして優先席に座り続けている若者を見ると無性に腹立たしくなります。

・台湾人は親切で老人にやさしい
 私は、仕事の関係で、中国、台湾、韓国に良く出掛けました。現役を引退した今は、観光で台湾に頻繁に出掛けています。何故台湾かというと、台湾は食べ物が美味しく、大変親日的であり、老人に優しく、居心地が良いからです。台湾では、私のような杖をついた老人を見かけると、皆さん必ず席を譲ってくれます。台湾の交通機関は、日本よりも多くの優先席が設けられています。台湾でも混雑時は優先席に健常者の方が座ることがありますが、その健常者は常に周囲に気配り・目配りをしており、身体の不自由な方やご老人が乗ってきたら直ぐ席を立って譲ります。またある時、地元の人に片言の中国語でバス停の場所を尋ねたら、言葉で説明するのは難しいからとバス停まで道案内してくれました。台湾人は弱い人にやさしく、誰にでも本当に親切です。

・「日本精神(リップンチェンシン)」
台湾人のこの「やさしさ」「親切さ」はどこから来るものでしょうか。自己中心主義が蔓延する中国大陸の人達にはないものです。50年に及ぶ日本統治時代の学校教育、「道徳教育」「修身教育」によるものだと思います。戦前世代(日本語世代)の台湾人が好んで使う言葉に「日本精神(リップンチェンシン)」という言葉があります。「日本精神(リップンチェンシン)」とは、「勇気」「誠実」「勤勉」「奉公」「自己犠牲」「責任感」「遵法」「清潔」といった精神を指す言葉です。台湾では、この精神が戦後の世代にも脈々と引き継がれています。昨年退官された台北駐福岡経済文化弁事処・処長(総領事)の戎義俊氏も母親から「日本精神(リップンチェンシン)」をよく聞かされたと語っています。戦後の日本人が失くしてしまった「日本精神」や「武士道精神」が台湾人には脈々と引き継がれているのです。
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・団塊世代と「造反有理」
 日本でこの良き精神文化である「日本精神」「武士道精神」が失われてしまったのは、GHQの占領政策に因るものと言われますが、我々団塊の世代の責任も大きいと思います。高校三年生の時(1966年)に、中国では「文化大革命」という狂乱の大衆運動が勃発しました。小野久馬先生の「政治経済」の授業で、この騒乱勃発のことを習ったのを思い出します。当時は、何が始まったのか、何が起きようとしているのか、良く分かりませんでした。騒乱勃発当初は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治運動だと思っていました。しかし、その実態は大躍進運動の失敗で権力中枢から外されていた毛沢東が、自分の復権を図る為に仕掛けた権力闘争だったのです。紅衛兵と呼ばれる少年・学生・若者らと大衆を扇動し、政敵(劉少奇国家主席や鄧小平ら)を失脚させる為に仕掛けた大衆運動だったのです。この運動のスローガンとして使われた言葉が、毛沢東語録の「造反有理」「革命無罪」です。「造反有理」とは、「造反(謀反)には正しい道理(理屈・理論)がある」という意味で、「革命無罪」は「革命は罪にはあたらない」いう意味です。この大衆運動で、政敵とされた劉少奇国家主席は獄中死しました。政敵とは全く無関係な多くの人達もが犠牲となりました。正確な数字は不明ですが、「文革」による死者は2千万人とも、4千万人とも言われています。
 この毛沢東語録の「造反有理」「革命無罪」の思想が、我々団塊世代の学園闘争や政治闘争に大きな影響を与えました。「造反有理」に共鳴した我々団塊の世代が、今までの良き「日本精神」「武士道精神」をも崩壊させてしまったと思います。そういう意味で我々団塊の世代の責任は大きいと思います。

・親日的な台湾人
 台湾統治50年、朝鮮統治35年、学校教育をはじめ同じような統治政策が行われたのに、日本に対する国民感情は台湾と韓国では大きく異なっています。何故台湾は親日的で、何故韓国は反日的なのでしょうか。台湾が親日的なのは、列強諸国の植民地政策とは違って、日本は積極的にインフラ投資を行い、殖産興業を図り、現地人の教育に力を入れたからだと良く言われますが、それだけではないようです。台湾の場合、日本が引き揚げた後に入ってきた大陸の人間(外省人)が余りにも酷かったからだと思います。
 1947年2月28日に、大陸からの官吏や兵士達(外省人)の腐敗、強奪、横暴に不満を募らせた台湾民衆(本省人)が蜂起した「二二八事件」が起こりました。この「二二八事件」を切っ掛けに、知識階層の台湾人(本省人)の一斉摘発・処刑(白色テロ)が始まりました。推定で数万人の台湾人が殺害されたと言われています。1949年12月に国共内戦に敗れた国民党政権は台湾に逃げ込んできました。国民党政権は、1949年5月から1987年7月まで38年間戒厳令を敷いて一党独裁の権威主義的な恐怖政治を続けました。台湾人の親日感情は、戦後に大陸から移ってきた国民党政権に対する失望や反感の裏返しの側面もあったのではないかと思います。
 この一党独裁の政治に終止符を打ち、政党結党の自由、国会議員選挙、総統直接選挙と民主主義の国家体制へと変革を進めたのは、日本語世代(台北高等学校卒、京都帝国大学在学時・学徒出陣)の本省人である李登輝総統です。李登輝総統による「この無血革命とも言える変革」は、絶賛に値するものだと思います。

・中華思想と反日感情
 韓国、中国が反日的なのは、中華思想が影響していると思います。中華思想とは、「天子が統治する中華(中国)が世界の中心であり、中華に統治されない地や中華に朝貢しない地は化外の地(文明の及ばない卑しい地)という中華民族(漢民族)中心主義の思想です。朝鮮(李氏朝鮮)は「中華を支える」「小中華(小華)」を自認してきた国です。中華の文明が及ばない化外の地は、北が「北狄」、東が「東夷」、南が「南蛮」、西が「西戎」です。日本は文明度の低い東夷の国(「倭国」)であり、日本に支配されることは「中華」や「小華」の国の人達のプライドが許さないのです。そもそも台湾は「化外の地(東夷)」と呼ばれていたので、台湾人(本省人)には中華のプライドは無いのだと思います。
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・日本統治時代の建築物
 韓国では、日本統治時代の匂いがする建物はことごとく打ち壊され、今日何も残っていませんが、台湾では、日本統治時代の建造物が数多く残っており、現在も活用されています。台湾総督府(現・総統府)、台湾総督官邸(現・台北賓館)、台北州庁(現・監察院)、台湾総督府博物館(現・国立台湾博物館)、台南州庁(現・国立台湾文学館)、台南警察署(現・台南市警察局)、高雄市役所(現・高雄市立歴史博物館)、台北帝国大学(現・国立台湾大学)、台北高等学校(現・国立台湾師範大学)、新竹駅舎、台南駅舎、高雄駅舎など数え上げれば切りが有りません。
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旧・台南州庁(現・国立台湾文学館).jpg
台南 1932年開店・林百貨店(2014年再開業).jpg
旧・高雄駅駅舎(現・高雄鐵路展示館).jpg

 木造の建造物も修復を加えながら出来るだけ残そうとしています。台湾東部を旅行した際に、車窓に瓦屋根の日本家屋群を発見して大変感動しました。この日本家屋は台湾東部に開拓民として入植した日本人が住んでいたものです。補修を加えながら、今も台湾人(原住民・アミ族)が暮らしているのです。
菁桐(チントン)炭鉱の日本家屋群.jpg

 台湾に入って来た国民党政権も当初、日本統治時代の匂いがする建造物や記念碑は徹底的に取り壊し、日本の名残を消し去ろうとしました。特に徹底して打ち壊した建造物は神社です。神社はことごとく打ち壊して、国民党軍の戦死者を祀る「忠烈詞」や「関帝廟」などの道教寺院に変えました。台北市にあった「台湾護国神社」を取り壊して「中華民国忠烈詞」に変えました。台北市を見下ろす高台にあった台湾鎮護の「台湾神社」を取り壊して、その広大な跡地に蒋介石夫人が経営する中国建築様式の豪華ホテル「円山大飯店」を建てました。また、日本人の銅像はことごとく撤去し、残った台座の上には国民党政権の象徴である蒋介石像を建てました。

・台湾正名運動
 台湾正名運動とは「中国」「中華」「CHINA」という呼称を「台湾(TAIWAN)」に改め、台湾の存在を「中国の一部」から「中国とは別個の地(別個の国)」に変えることを目標にした運動です。今日の台湾は極めて民主主義国家なのに国際的には孤立しています。その背景は、中華人民共和国(中共)が「台湾は中国の一部であり独立を認めない」と主張しているからです。「中国の一部」とか「独立を認めない」とはおかしな話です。
 中華民国以外の大陸政権が台湾を支配したのは、清王朝時代のほんの一時期(約200年)だけです。その清王朝は台湾を「化外の地」と位置づけており、真面目に統治してはおりません。ましてや中共が台湾を支配したことは一度もありません。「台湾は中国の一部」と言うのは無理があります。「ベトナムは中国の一部」と言うのと同じです。台湾は既に独立した立派な国家です。共産党一党独裁の恐怖政治の中共より、台湾の方が自由であり民主的であり国民本位であり、立派な独立国家だと言えます。
 ところが、中共はあらゆる国際的な機関から台湾を締め出そうとしています。1971年10月、国連の常任理事国の座を中共に取って代わられた時、蒋介石は国連を脱退し中共を承認する国と国交を断絶しました。この時の蒋介石の判断がまずかったと思います。その後の台湾の苦労、苦悩はこの時から始まったのです。民主主義国家になった今日も台湾は国連に加盟復帰出来ずにいます。それは常任理事国となった中共が拒否権を行使して反対するからです。
 私は、「中華民国」という虚構の国名を早く捨てて、「台湾共和国」と名称を変えた方が良いと思います。また、公営企業や団体名などにも多く使われている「中国」「中華」「CHINA」も早く「台湾(TAIWAN)に改めるべきだと思っています。虚構の名称を使い続けているから紛らわしいのです。「中華民国」と言っているから、歴史を知らない世界の人々に「台湾は中国の一部」と思われるのです。

・むすび
 「日本は同胞の台湾を二度捨てた」と台湾では言われます。一度目は、1945年にポツダム宣言を受諾して台湾の施政権や公有財産を放棄し、その権利を台湾人ではなく蒋介石政権の手に渡したことです。二度目は、1972年に中華人民共和国と「日中共同声明」を調印し、それまで国交のあった台湾(中華民国)と断交したことです。台湾を捨てた日本政府は、その後の台湾の苦悩に対して目をつぶり無関心を装ってきました。
 「今日の香港、明日の台湾、明後日の沖縄」です。覇権主義を強める中国(中共)に対して日本と台湾は運命を同じくしています。日本と台湾は、運命共同体としてもっと強く結び付き合うことが必要です。台湾を国際的な機関から締め出そうとしている中国(中共)に対して、日本はもっと強く反対すべきです。メディアには、台湾を取り巻く国際状況や台湾の現状をもっと取り上げて欲しいと思います。
 我々日本人は、台湾の「親日」に甘えるだけでなく、民主主義や人権、倫理観などの価値観を共有する隣人の問題として、台湾問題には正面から向き合うことが必要です。

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“同窓会″で培った二回卒〝Uターン組の絆″は強い! [西高2回生寄稿集]

佐賀西高二回卒 池田 直

 団塊世代の中核を占める私達佐賀西高昭和42年卒業(第2回)で、福岡Uターン組4人の絆は強い。それを四つ紹介しようと思います。
 私達同期4人は2001年頃53歳前後で、故郷九州へ“第二の職場″のためにUターンしてきていました。お互い高校時代は全く付き合いがありませんでした。1人とは名古屋勤務時代大阪出張時友人と会った際たまたま「関西栄城同窓会」に誘われ、高校卒業以来約20年振りに会ったのがきっかけでした。他の2人は東京転勤時代「佐賀西高第二回卒業三十周年記念同窓会」(カミングホームディ)の東京地区クラス幹事で、一緒に盛り上げに奔走した仲間でした。
 このように彼等3人とは期せずして、“同窓会″が縁の仲間なのでした。

 一つ目ですが、4人とは知り合い始めの頃時々天神等で酒を飲んだり、ゴルフを楽しんでいました。付き合いが深まる中で、「人生八十年時代を迎え、福岡在住の高校時代の同期が定期的に集まり、情報交換やゴルフ等をやって懇親を深めて行こう」ということになり、第1回目を2003年10月16日2名の同級生仲間に呼びかけ、フジカントリークラブでプレイし古湯温泉に宿泊しました。
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「第1回 かちがらす ゴルフコンペ フジカントリークラブ」
 
 以降「かちがらす会」と命名し、同期の情報交換や懇親を深める為と目的やプレイ費を安くするため平日ゴルフ、温泉地宿泊、翌日観光の基本コンセプトや運営ルールを明確化し、年間3回、多い年は4回実施してきました。参加者も当初は6名/2組でしたが、福岡・佐賀の仲間にも呼び掛け多い時は13名/4組となり九州の全県のゴルフ場、温泉地に行き五島や壱岐の島、更には台湾まで遠征しました。
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2013.3.18 台湾 八里GC
 
 15年続いた「かちがらす会」でしたが、体調を悪くする仲間が出始めコンセプトの維持が難しくなり第47回(2017.11)で一応終了しました。我ながら長期間続いたものと思っています。当初の4人のグリップが緩むことなく、硬かったからだと痛感しています。

 二つ目は、私達は出稼ぎ組で転勤族でもあり、これまで地元の同窓会活動に協力できていなかったので、2007年「卒業40周年同窓会」を我々でやってみようと思うが?と、2005年頃4人の仲間との懇親会で相談しました。皆さん協力するとのことでしたので、私が事務局長となって1年半から「かちがらす会」の皆さんを中心に、福岡・佐賀の仲間にも参加をお願いし体制を整え、東京・名古屋・大阪の「二回生同窓会」とも連携しイベントの企画、準備を行って来ました。
「記念同窓会」は「人生半分 まだまだ半分 生き方探しに 友と語ろう」の標語の下に 2007年9月15日~16日の2日間メイン会場は武雄温泉 ホテル春慶屋で開催しました。参加者は121名で「かちがらす会」を中心とした事務局やクラス幹事の皆さんの協力の結果大成功でした。  
 ユニークで誇れるイベントは、「“卒業40周年″記念フォーラム」とオプションイベントの「水の旅」です。「記念フォーラム」は司会者やパネラーの人選、進行、そして「水の旅」は石井樋公園から神野公園まで多布施川をゴムボートで川下りを楽しむイベントでしたので、用具の借用・安全面等の事前対応が大変でした。
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「記念誌」表紙


 三つ目は、2009年9月5日開催された「第21回福岡栄城会」です。その時の実行委員長が私達の仲間でしたので、会場設営、受付の責任者として、それからイベントの「佐賀にわか」の漫才師 よかんばばシスターズ(妹さんは佐高26回卒)のお二人のエスコート役をそれぞれが担当しました。その他にも,講演会の講師やパンフレット表紙の作成等仲間が協力しました。参加者は「かちがらす会」全員が参加し、また福岡・佐賀の同期も多数参加し全体で31名となり、久し振りに福岡・佐賀の同期の仲間が一同に会したのでした。
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「第21回福岡栄城会」二回生集合写真

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 四つ目は、私事ですが、家内が昨年末病魔に襲われ亡くなりました。夫婦共々定期的に
健康診断を受けていたのですが、一昨年末の健康診断で精密検査が必要と診断され九大病院に入院し検査入院しましたが、治療の甲斐なく昨年末亡くなりました。葬儀に際しては家内の要望もあり、又福岡に転居してまだ間もないこと、元来名古屋、東京と転勤族であったためご迷惑をおかけしないよう通夜、告別式は身内だけで行いました。
 そこで、「かちがらす会」の仲間の皆さんが中心となり福岡・佐賀の仲間も一緒に家内の「偲ぶ会」を開催して頂いたのでした。手作りとは言え心温まる「偲ぶ会」で天国の家内にも届き、万感の思いで感謝しているだろうと思った次第です。

 人生八十年時代を迎え、16年前“同窓会″を通じて偶然知り合った4人の仲間が福岡で発足した二回卒親睦会「かちがらす会」ですが、メンバーは佐賀に転居したり、新しい仲間を迎えたり又、体調を悪くするなど変わってきています。しかし、これからも同期との一体感を持って幅広く、設立時の基本コンセプトを仲間の状況変化に配慮しながら生かし、末長く続けて行きたいと思っています。

                                     以上
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西高の想い出 [西高2回生寄稿集]

西高2回生 清村 克行

 「高校に入ったら、関東関西旅行に行ける・・」との甘い期待を見事に裏切られた。ロの字型の暗い木造2階建て校舎で北門が正門だった。2回生は、10クラス約530名。最初の校内模試試験で、順番が下から数えた方が早かった(500番台)。学校は面白くなかった。行きたくなかった。親に話したら、「折角入ったのだから、勿体ない」と怒られ、仕方なく通っていたように思う。50年以上前の話で多少前後することがあるかもしれません。ご容赦ください。
 そんな1年生の秋ころ、学友から部活動対抗の「ソフトボール大会」の加勢を頼まれて部室に行った所、新入部員と紹介され、そのまま入部。あまり知られていない「図書部」で、旧図書館の裏に部室があった。主な活動は図書館の司書の手伝いや返却本の片づけ・整理と、読書感想文の募集・発表、他校との交流会「読書会」、視聴覚室での音楽鑑賞会(クラッシック)の開催だった。部活の中で仲間(今も付き合っている親友や女友達)を得て、少しづつ前向きになっていったように思う。そして2年生で部長に昇格していた。この前のお盆に佐賀県立図書館で見た50年前の「栄城九十周年の記念誌」のクラブ活動の欄にはもう「図書部」の記載はなく、いつのまにか消滅していたみたいだ。残念。
 文系の男女混合クラスの3年4組、運動会ではマトイを掲げた「E組」の応援団長をやった。
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 ストームでは委員を希望し、旧制高校の「寮歌」「校歌」等を覚えた。
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 クラス内でのグループ交際(男・女ともに4名)もやっており、サイクリングで柳川まで遊びに行ったこともあります。
 10月の終わり頃から、数学や国語のノートに日記を書いていた。今までの人生の中で「これっきりの日記」(約60日分)です。なぜか今でも手元に残っています。
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 毎日校門の前で、彼女の部活帰りを待ち、二人の家が佐賀球場の方だったので一緒に話をしながら帰りました。日記には、その時々の感情や彼女への想い、悶々とする日々の記録が綴られていました。 「愛」や「恋」や「友情」だの、プラトニックな内容で溢れていた。「大学」や「人生」や「死」とかもあった。恋に恋していた詩人だった。そして翌年の2月初めに、夕焼けに染まるその球場で「振られた」。彼女いわく、「会話が硬すぎて、ついて行けない」と。大学受験の直前だった。
 
 失意の中、一期校の長崎大学・経済は落ち、二期校の佐賀大学・経済にはなんとか入学できた。受験科目5科目で、社会は選択で「世界史」、理科は「物理」指定で良かったかも。
 
 西高で学んだものは、「友情」と「失恋」だったかも知れない。


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佐賀西高2回生の幸運 [西高2回生寄稿集]

村岡 安廣

 昭和39年4月入学、昭和42年3月卒業の佐賀県立佐賀西高等学校2回生の幸運は数多く、只々ありがたい限りです。
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 まず同級生が544名と西高史上最大数を誇ります。1回生入試は期待が大きかった分志願者が少なく生徒数が想定より減少してしまいました。2回生は逆に気楽に志望した生徒が多かったためか、団塊世代の中心であったこともあり、膨張してしまったのです。その分多くの多彩な才能を持つ友人に恵まれたことが第1の幸運と感じています。

 次の幸運はファイヤーストームです。1年生の初回は佐高16回生、西高1回生の先輩方と大団円を組むことができ、佐高の伝統を受けつぎ、佐中以来の大らかでバンカラな栄城魂を体感することができました。今は生徒数が少ないためゆっくりとした歌が続きますが、千数百名の大合唱とストームリーダーの迫力は今では想像できないようなプレッシャーがあり、16歳の血は大いに熱い状態となったことを強く想いうかべます。javascript:;
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 修猷館高校との対抗戦最終から2回目の昭和41年まで、修猷館へ1年生3年生の折2回行ったことも大きな思い出となりました。修猷館の所在地は今は都会となっていますが、当時は松原の中で、佐賀城内の西高のほうが賑やかに感じられていた時代でありました。卓球部の対抗試合は、福岡県中位とされた修猷館のレベルは高く、いささか圧倒される場面が多かったと記憶します。日本一のマンモス校といわれた佐高時代でも接戦であったとされる対抗戦ですが、3年生の折アウェイの修猷館での対抗戦において勝利し、生徒会の小松総務委員長(3回生)が堂々と勝利宣言をして大いに意気が上りました。
対抗戦はその翌年をもって終了となりましたが、その原因はフォークダンスの女子生徒が佐高時代は多かったのに対し西高となって修猷館と同様少なくなり、修猷館が断ったとの噂がひと頃ありました。昭和28年からの伝統戦で、修猷館記念館中央の年表にもひときわ大きく「昭和28年対佐高戦始まる」と記されていたことから、当時の修猷館の生徒会のメンバーに尋ねると「修猷館生徒会自体に課題があり中止させてもらった」との答えが返ってきました。男子生徒は東京関西方面の修学旅行がなかったため校外に出ることは殆どなかった西高初期の時代に、1年3年の修猷館における対抗戦、2年の福岡市のツタンカーメン展見学は青春の大きな1頁でありました。

 下宿生活3年間の最初の年昭和39年に東京オリンピックが開催されました。県庁所在地の佐賀市は県内でオリンピックの聖火リレーをはじめ関連行事が最も多く行なわれ、多くの思い出が残りました。県庁前の佐賀中央郵便局のそばを聖火リレーが多くの声援の中で通り過ぎたことを昨日のように思い出します。聖火リレーが走った貫通道路すなわち国道264号線は今よりも渋滞が激しく、夕刻のラッシュ時に時折西の高橋から下宿に近い東の材木橋までの数キロメートルを自転車と自動車の競争を試みました。自転車が早かったのですが、これは今でも変わらないと感じています。市川崑監督の東京オリンピック記録映画もその後放映され2000万人の記録的観客数であったとされています。映画の最後の全盛期で有楽、平劇、大洋などの映画館も多くの観客で賑わっていました。

 卒業して50年近く仕事を続けています。何よりもありがたいのはこの長い年月の内に先輩同級生として後輩の方々との交流を通してすばらしい出会いと温情をいただいたことです。その元となる「栄城」誌は偶然ながら創立90周年が昭和41年の3年生の時であったことから、90年誌、100年誌、110年誌、120年誌、130年誌、140年誌の6冊が手元に集まり、読めば読むほどアーカイブとしてのすばらしさに心を打たれます。
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 百周年記念誌には佐賀高等学校同窓会会長であった杉町誠二郎氏が生徒会原口一博総務委員長をはじめとした皆さんと対話した記録が残されています。後に佐賀県教育委員会委員長となられた杉町氏は自らの体験をもとに様々な発言をされています。ひとつひとつが的確に教育のあり方を示されており名言が揃っていると感じます。教育委員長退任の折には「生徒を見守ることが教育の基本である」ことを示されました。創立140年記念式典では壇上に着席され、只々嬉しそうにその光景を見守っていただきました。140年記念誌「栄城」の別冊DVDに登場され、「学校の思い出」を尋ねられて「何でも良かった」と、満面の笑みをうかべながら数回続けて述べられました。幼少の頃から数多くの体験を重ねられた杉町氏の母校愛、人間愛はこのDVDにすばらしいアーカイブとして残されました。

 90周年記念誌「栄城」121頁には昭和5年佐賀中学校卒の岩尾新一氏「西めんもん」の記事があります。小生妻の父である岩尾氏は歌人中島哀浪門下でもあり、栄城山脈の一員らしい一文を残されました。
 文中の一節に、「福田恒治こと松平晃は、今は亡いが誠にぐうだらな自由人に見えたが、後年果して有名な歌うたいになった」とあり、藤山一郎と共に一世を風びした流行歌手松平晃の存在により、今では軍人輩出校のイメージが残る佐賀中学校は、本来多彩な人材輩出校であり、岩尾氏にとって松平晃氏は同級生として特筆すべき人であったことが示されました。
 そして最後の一文は次のように締めくくられました。

 私は東京に行く機会が多く良く同窓会に出席するが、卒業後三十五年経った今日では、秋霜を経て一見葉隠精神にも可なり色あせた変化が見受けられるが、一杯呑んでかなり酔って「天山颪」が出る頃になると、やはり争えない「死ぬ事と見付けたり気風」が露見して来て一種の安心感を覚えるのである。

この葉隠の心が弘道館以来の栄城の伝統をつなぐ最も大切な精神であるとして、平成九年村岡総本舗羊羹資料館が国の有形文化財として登録された折、次の祝いの句が岩尾氏より後輩の小生に届けられました。
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「葉がくれのその名のごとく村岡は天山山脈のふところどころ」



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