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佐賀の長崎街道を歩く:「大覚寺から高橋」編 [故郷(佐賀)を歩く]

佐賀御城下絵図でまち歩き 伊勢町から高橋.jpg

 *国道264号伊勢町交差点を横切り、街道を西進して行きます。佐賀城下三十三町での伊勢屋町・伊勢屋本町・点合町・六座町・長瀬町と、八戸町を歩きます。
 ☆鍋島藩祖・鍋島直茂が当時商工業の中心地であった鍋島蠣久の座を佐賀城総普請に際し、移したのが六座町であり、慶長10年(1605年)同じく鍋島蠣久から大神宮を移して伊勢神社を建立、門前町として伊勢屋町(旅籠街)ができ、伊勢屋本町には呉服商が軒を並べ、江戸期の商業の中心でした。六座町の西に刀工などが移り住み長瀬町が生まれ、そこは職人町として江戸期から明治・大正期にかけて更にに発展した通りでもありました。
伊勢町交差点.jpg

 *伊勢神社参道・・街道の景観に沿った建物が新たに立ちました。
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 *大覚寺・・伊勢神社の右手前に位置しています。山門は寛文11年(1671年)に上棟、昭和63年に今の場所に移動しています。
大覚寺 山門.jpg

 *大覚寺の石橋と本堂・・石橋は1672年に架けられた県内最古の眼鏡橋です。
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大覚寺 眼鏡橋.jpg
大覚寺 眼鏡橋 2.jpg

 *大覚寺にある佐賀市重要文化財・「木原隆忠の墓誌」と「末代念仏十綬手印」説明版
大覚寺 文化財 説明.jpg

 *参道の恵比寿さん・・今は閉店している店先ではありますが、静かに微笑んでいます。
伊勢神社前の恵比寿さん.jpg

 *伊勢神社の石造肥前鳥居・・慶長12年(1607年)に造立。この年は、文禄・慶長の役で断絶していた朝鮮通信使が、江戸幕府に初めて派遣された年であり、龍造寺高房が江戸で急死、父政家も亡くなり、鍋島直茂の嫡男・勝茂に龍造寺家の家督を継がせる形で鍋島家に、佐賀藩35万7千石(357,036石五斗九升九合)移行した年です。
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 *伊勢神社・・全国で唯一伊勢神宮の分霊を勧請できた神社です。
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 *石造肥前狛犬一対・・寛文7年(1667年)の造立銘があり、佐賀市内で最も古いものと言われています。
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☆石造肥前狛犬は、小型で静的な造形にて、造りは簡素で素朴なのが大半です。近年、不届者が県内にある肥前狛犬を盗み、ネットオークションに出して捕まっています。小城町の民家跡から盗まれた狛犬は転売が繰り返され、遠く米国ニューヨークに渡っていたことが追跡調査で判明、盗難品である事で無事返還されたとのニュースが今年ありました。
 ☆伊勢神社は、天文年間に信仰厚い杉野隼人が18歳から44歳までの28年間に春秋55回も伊勢神宮に参拝した熱意が認められ、五十鈴川のご神石をご神体として、天文11年(1543年)神崎郡田手に分霊を祀ったのが始まりです。その後鍋島蛎久の遷座し、鍋島直茂公・陽泰院ご夫婦の子授け祈願の月参りが満願、初代藩主勝茂公が誕生したことから鍋島家の信仰さらに厚く、佐賀城下整備に当たり、当地に再度遷座となっています。
 
 *英彦山神社と伊勢恵比寿神社・・石造の恵比寿像は佐賀で最も古い「寛保3年(1743年)」恵比寿さまです。当時、街道筋で繫栄していた伊勢屋町氏子の方々が、お礼にお祀りしました。
伊勢神社 恵比壽社と恵比壽さん.jpg

 *長崎街道は、伊勢神社前から道筋が南になり,伊勢屋本町になります。
伊勢神社 長崎街道.jpg

 *駄賃小路入口の恵比寿・・寛政5年(1793年)製、この界隈は、旅籠・芸者置屋・料亭・駄菓子屋などの商店が立ち並んでおり、駄賃小路の奥には、幕末・明治に活躍した要人たちが学んだ「純粋社塾」がありました。
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 ☆一寸寄り道・・駄賃小路(町)「佐賀城下三十三町」を散策。

 *真覚寺・・永禄年間(1558~1569年)に創建された寺院で、入口に建つ鐘楼は元禄12年(1699年)に建立されたもので、佐賀市文化財指定。ちなみに、赤穂浪士討ち入りは元禄15年。また、「刀匠初代肥前国忠吉公之墓」があります。
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真覚寺 初代肥前国忠吉 説明.jpg

 *純粋社塾趾・・石井龍右衛門(松堂)が主催した私塾跡。藩校弘道館に学び、その後弘道館教諭に就任、その後体調を崩して職を辞し、私塾を開いた。大隈重信・福島種臣・大木喬任・江藤新平などが、弘道館に学ぶ傍らここでも学んでいます。
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 ☆吉田松陰の松下村塾は安政4年(1857年)から翌5年の短期間でしたが(塾自体はその後も断続的に続く)、純粋社は幕末から明治元年まで続いています。石井松堂は松陰と同じ勤皇思想家ですが、喜怒哀楽が豊かで、大酒のみ、若い藩士たちに人望があり「龍よんさん」と呼ばれ慕われています。明治15年(1882年)没。
 *純粋社塾跡より南進すると長崎街道に出ます。
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 *伊勢神社から街道を100m程南進し、点合町を西に向かいます。
伊勢神社を南下.jpg
伊勢屋本町から点合町へ.jpg

 ☆ここを直進すると、伊勢屋本町から西魚町を経て、与賀神社参道に至ります。現在では、貫通道路西魚町交差点に出ます。
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 *点合町から六座町を歩きます。
長崎街道 点合町から六座町.jpg


 ☆一寸寄り道・・成富兵庫茂安、江藤新平が眠る本行寺の案内表示が、街道沿いにあります。
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 *街道から本行寺に向かう道筋は、江戸期において小丹小路と呼ばれた下級武士が住む地域でした。今では住宅地ですが、文化年間(1800年代)の佐賀御城下絵図を見ますと、各々の屋敷を堀が囲み、出入り口だけが小路につながっていました。本行寺は本行寺小路で与賀神社参道とつながっています。
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 *成富兵庫茂安・・安土桃山から江戸初期にかけ,、龍造寺・鍋島氏に仕えた武将。大友氏を撃退した「今山の戦い「元亀元年(1570年)」に12歳で参戦、龍造寺隆信より一字を与えられ、信安と名乗る。豊臣秀吉の薩摩征伐前に、名代として大阪に上がり豊臣方との折衝役を務める。その後龍造寺から鍋島に実権が移ると、鍋島直茂に仕え「茂安」と名乗った。大坂夏の陣まで、数々の戦で武勲を立てるとともに、加藤清正の熊本城・江戸開府時の江戸の町や水路の整備、二条城・駿府城・名古屋城・の築城にも参加しています。そのことから、鍋島直茂が佐賀城下を整備するにあたっては、茂安にすべてを託したと言われています。その後慶長15年から亡くなるまで佐賀平野の治水事業で多大な功績を残していることは佐賀の誰もが知っています。
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 *江藤新平・・下級藩士(手明鑓)出身で弘道館では3歳年上の副島種臣から可愛がられ、実父が職務怠慢で永蟄居の処分を受けると、内生に進めず種臣の実兄・枝吉神陽の私塾に通っている。明治新政府でのライバルとなる大久保利通も、実父がお由良騒動で連座罷免さており、少年期は似たような境遇を経験している。司馬遼太郎は新平を主人公にした「歳月」で江藤と大久保の明治新政府での実務者として似た者同士の相克を描いている。二重鎖国を犯して脱藩・帰藩・永蟄居を経て、幕府が消滅し大政復古の大号令に際し、佐賀藩から副島種臣と共に折衝役として新政府に派遣された。新政府においては近代法治国家の基礎を築いたが、征韓論に敗れ下野し佐賀の乱の首魁に祭り上げられたが敗走、自身が作った写真手配制度で捕まり、大久保より激しく危険視されたことから、梟首とされました。死後鍋島の蓮成寺に埋葬されましたが、明治14年5月に本行寺に改葬されました。墓碑銘は親友で書家でもあった副島種臣によるものです。
江藤新平 墓.jpg

 ☆成富兵庫茂安は新政権である豊臣との交渉役を担い、低山である脊振山系からの河川が少ない佐賀平野での治水に尽力し、江戸期では一揆や水争いもなく、干拓などの新田開発で草高90万石以上と言われた佐賀藩の土台造りに貢献しています。江藤新平も幕府に代わる新政権との交渉役から、その後明治政府での司法の独立を確立し近代国家造りに貢献しました。枝吉神陽が唱える天皇中心の律令制の知識に接していたこともあり、明治2年に帰藩し準家老(着座)として版籍奉還、その後の廃藩置県を見据えた藩の改革を、躊躇なく断行しています。佐賀藩の黎明期に貢献した人物と終焉を主導した人物が、同じ墓地に眠っています。

 *白石鍋島家初代直弘の墓が、本行寺北西奥にあります。初代藩主勝茂の四男、成富兵庫茂安の養子になるが鍋島家に復籍し白石鍋島家の初代となる。死後養父(茂安)の菩提寺に納めるよう遺言したと伝えられています。
白石 鍋島直弘 墓.jpg

 *天徳寺・・街道に戻ります。佐賀城下初期の町造りで、蠣久天満宮と共に現在地に移さていいます。
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 *大庭雪斎の墓・・医学者にして博学の人。安政元年(1854年)弘道館の教導、嘉永4年(1851年)蘭学寮が創設されると教導となり、学生であった大隈重信に多大な影響を与えた。医学寮が好生館と改称された後も、指導方頭取の要職にありました。明治6年(1873年)没。
大庭雪斎の墓.jpg

 *北面天満宮・・本殿が北を向いていることから、こう呼ばれています。入口の肥前鳥居は明暦4年(1658年)の銘があり、神門には火除けの龍がいます。
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 *六座町・・江戸初期に佐賀城下町割りで最初に作られた街並みと言われています。六座とは、硝煙座・穀物座・縫工座・木工座・金銀座・鉄砲座からなり、大層な賑わいだったようです。
北面天満宮と六座町の説明と道標.jpg

*天祐寺川が街道を横切り、道祖元町から本庄方向に流れています。この先街道は長瀬町に入ります。
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 ☆一寸寄り道・・日新小学校の手前から天祐川に沿って北に上がる路地を進むと、天祐寺があります。龍造寺高房の菩提を弔うため、元和元年(1615年)鍋島直茂が建立。佐賀城下北西の出城としての役目もありました。諫早に、諫早龍造寺家の菩提寺で、南北朝期の西郷尚善開基の天祐寺があります。
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天祐寺 説明版.jpg
天祐寺 本堂.jpg

 *ここには、からくり儀右衛門の息子(娘婿)の墓があります。佐野常民により佐賀藩に招かれた親子は「精煉方」で働き、佐賀藩の近代工業化に寄与しました。父・久重が久留米藩に招かれた後も佐賀に残り、自前の蒸気船建造に取り組んでいたが、悲運にもアームストロング砲製造開発に苦悩していた秀島藤之助の発狂により惨殺されています。久重は明治なり東京にでて明治8年(1875年)、東芝の源流の一つである、日本初の先進設備メーカーである田中製造所を設立しています。

 *日新小学校、築地反射炉・・鍋島直正は10代藩主に世襲後、藩行財政立て直しの改革を進め、一定の成果を収めたのち、フェイトン号事件以来の懸案であった長崎警備の強化を幕府へ建議しています。許されて、実用反射炉として、鉄製の洋式大砲を鋳造する為に嘉永3年6月(1851年)築造を始め11月に完成させています。4基の反射炉を作り稼働させ、当時佐賀藩領であった伊王島と神ノ島の砲台に配置しています。ペリーが浦賀に来航するのは、嘉永6年6月(1853年)です。
築地 反射炉.jpg
築地 反射炉 と説明版.jpg

 *小学校の東側を流れる祐天寺川・・川の流れで水車を回し動力とし、大砲の砲身をくり抜く錐鑚台(すいさんだい)もありました。
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 *日新小学校より先で左に折れ少し南に長瀬町を歩きます。戦時中に焼夷弾で背中が焦げた恵比寿さんが目印。
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長瀬町 南に歩く.jpg

 *左手に西念寺があります。・・幕末、閑叟公の側近として長崎での対外交渉に活躍した伊藤次兵衛の墓があります。
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 ☆伊藤次兵衛は佐賀藩中老です。藩校致遠館教師5人と共にフルベッキと一緒に写った写真が近年発見され、伊藤次兵衛の日記に明治元年10月8日フルベッキと一緒に上野彦馬が撮った事が記述されていますので、撮影日が特定されました。幕末志士の群像写真とも一時言われていた「フルベッキ群像写真」は、同じく致遠館教師5人が写っていることで、藩校の致遠館に岩倉具視の子息2人が遊学した記念に、学生が集って撮った群像写真との説に落ち着きそうです。
 
 *泰教寺・・街道を南に進むと泰教寺があります。ここには鋳物師谷口家の墓があります。谷口家は佐賀藩御用鋳物師であり、反射炉での大砲製造にも貢献、明治期には西洋の近代技術をを取り入れた谷口鉄工所に発展、鉱山用機械や鋳鉄管などを製造し、舶来品を上回る品質で西日本でも有数の鉄工所となりましたが、昭和恐慌の煽りを受け昭和4年に閉鎖されています。
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谷口家の墓.jpg

 *街道の東側に明治・大正期の谷口鉄工所があり、敷地2100坪、職工400名内外にて長瀬町の繁栄を支えていました。
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 ☆福岡県庁のある東公園にある明治37年(1904年)建立の「亀山上皇銅像」と「日蓮上人銅像」は谷口鉄工所が鋳造しています。
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亀山上皇銅像.jpg

 ☆高さ6メートルの銅像の原型木造は、高村光雲の弟子で博多出身の山崎朝雲の代表作で、筥崎宮の奉安殿に安置されています。
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 ☆日蓮上人銅像の原型作者は竹内久一、台座壁画は矢田一嘯。高さは10,66mもあり、奈良の大仏・鎌倉の大仏に次いで、国内3番目の大きさと言われています。
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 *長崎街道は医院の先から西に進みます。
長瀬町 街道は西へ.jpg

 *肥前忠吉屋敷跡・・街道をまたいで、記念碑と説明版があります。文化年間の佐賀御城下絵図に「橋本近江」とある場所です。
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 *忠吉は龍造寺家の家臣橋本道弘の子として生まれ、肥後・山城にて刀作を学んだ後佐賀に戻り、鍋島勝茂より藩工として長瀬町に居を構え、寛永元年(1624年)に武蔵大掾を受領し忠広と改名。息子は近江大掾忠広(二代肥前忠吉)であり以後9代続きました。初代と3代(陸奥守忠吉)は文化2年(1805年)山田浅右衛門による「懐宝剣尺」で最上大業物12工の一人とされ、2代・近江大掾忠広は大業物(21工)としています。忠吉の門人には肥前国住伊勢大掾藤原吉広(初代)がおり、良業物(50工)とされています。
 ☆「懐宝剣尺」は、戦乱がなくなった江戸期において、実際に刀を使う機会がなくなり慶長以降に作られた「新刀」の評価が曖昧になったことから、幕府の御試御用首切り役の山田家5代当主浅右衛門が実際に試し切りをした結果をランキングした書物です。肥前国忠吉9代及び一門は100名を超える刀工を輩出しています。作刀は佐賀県立博物館にて常設展示されています。

 ☆佐嘉神社正面入り口に、日本最初の鋳造鉄製150ポンドカノン砲があります。
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 ☆傍に「日本近代科学技術の曙をつげた草分の先覚者を紹介しています。
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☆藩祖鍋島直茂は朝鮮より有田焼の祖「李参平」を連れ帰り、また刀工忠吉及び鋳物師谷口清左衛門を召し抱えました。江戸期においてそれぞれの技術集団は発展し、10代鍋島直正の築地反射炉及び大砲鋳造で直茂の巻い種が成果をみたとも言え、有田焼の対高熱登り窯レンガは反射炉の耐火煉瓦に活かされ、刀工・鋳造一門はカノン砲を造りあげました。

 *更に歩くと、佐賀市重要民俗文化財の道標があります。1 面に「ながさきへ、こくらみち」と 2 行に、もう 1 面には、「いさはやとかいばへ」(諫早渡海場へ)と刻まれています。
道標 いさはやみち.jpg
 *長崎に向かうには、西与賀の諫早渡海場から船で諫早・本明川河口の光江津に渡り、そこから長崎に向かうルートもありました。

 *これから八戸に進みます。八戸は佐賀城下の西端の郷宿で、古宿・新宿・高橋を合わせて八戸宿と呼ばれていました。
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 *北島邸・・明治期の建築様式を多く残す町屋建築。鯰橋から先が八戸宿です。
北島邸 と 鯰橋.jpg

 *のこぎり型家並み・・敵の攻撃を防御するためとか、荷車を置くスペースを確保するためとか言われています。
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 *枝梅酒造・・のこぎり型家並みの一角を占る造り酒屋の「枝梅」は平成23年(2011年)廃業しましたが、佐賀市が敷地の一部を買い取り、建物は無償譲渡の予定にて、トイレと休憩エリアや駐車場を整備する事が決まりました。高橋に至る街道筋に現在トイレ休憩施設がなかったことから、今後が期待できます。
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 *久保薬局屋根看板・・佐賀藩御用の製薬販売から明治になって、一般向けにも販売するようになって掲げた看板が、今も残っています。
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 *街道はのこぎり型の道並が続きます。
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 *龍雲寺・・葉隠の口述者・山本 常朝及び一族の墓があります。ここは室町時代から戦国まで八戸一帯を支配した豪族於保氏(八戸氏)の館跡であり、山本常朝は末裔と言われています。
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山本常朝の墓.jpg
☆山本常朝(じょうちょう):万治2年(1659年)~享保4年(1719年)61歳、2代藩主光茂に仕え、石田 一鼎の教えを受け、京都御用時には三条西 実教より古今伝授を得ている。主君の死後出家し隠遁、宝永7年(1710年)より田代 陣基へ武士としての心得を口述「葉隠 11巻」しています。5代将軍綱吉とほぼ同じ時代を生きた人です。

*龍雲寺の先に地蔵橋があり、地蔵が鎮座しています。
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 *宝暦6年(1756年)長瀬町の鋳物師谷口左衛門による銅製の地蔵が鎮座しましたが、昭和19年供出、昭和29年に八戸の有志により石像で再建されています。
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 *国道208号の環状西通りを渡ります。
環状西通りを渡る.jpg

 *長安寺・・刀匠橋本新左衛門忠吉(肥前忠吉)の2代目から9代目までの墓があります。
長安寺.jpg
刀匠 忠吉の墓 3.jpg

 *長安寺の先に現役の「丸形庇付ポスト」があります。15時に郵便回収。
街道の 赤ポスト.jpg

 *八戸窯恵比寿・・恵比寿像は敷地の鬼門に当たる北西に置かれますが、例外もありますね。
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 *江藤新平誕生地を示す看板が「高く」掲げられています!要注意。街道はこの先にクランク「桝形道路」があり宿場町の出入り口の特徴が残っています。
江藤新平誕生地 看板.jpg
 *街道から北に200mに誕生地の説明版があります。周囲にはまだ田園風景が残っています。
江藤新平誕生地 説明版.jpg
江藤新平誕生地 田園風景.jpg

 *のこぎり型の道筋を高橋へ歩きます。
八戸 のこぎり型の道筋.jpg

 *井手邸(2011年・佐賀市景観賞)・・呉服商であった町屋を平成21年にリノベーションされています。(個人宅)
井手邸.jpg

 *高橋・・佐賀城下の西端に当たります。東の構口と同じく番所がありました。
佐賀城下 西の入り口.jpg
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 *新旧の高橋・・長崎街道の「高橋」は慶長年間に架けられています。現在は平成2年7月に歩道橋として竣工、貫通道路の新「高橋」は平成元年10月に架け替え竣工しています。
高橋 新旧 2.jpg


 橋を渡ると、街道はまたクランクして、現在の国道207号と同じ道筋で扇町から嘉瀬町に進んでいきます。
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