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佐賀西高2回生の幸運 [西高2回生寄稿集]

村岡 安廣

 昭和39年4月入学、昭和42年3月卒業の佐賀県立佐賀西高等学校2回生の幸運は数多く、只々ありがたい限りです。
西高 旧正門.jpg

 まず同級生が544名と西高史上最大数を誇ります。1回生入試は期待が大きかった分志願者が少なく生徒数が想定より減少してしまいました。2回生は逆に気楽に志望した生徒が多かったためか、団塊世代の中心であったこともあり、膨張してしまったのです。その分多くの多彩な才能を持つ友人に恵まれたことが第1の幸運と感じています。

 次の幸運はファイヤーストームです。1年生の初回は佐高16回生、西高1回生の先輩方と大団円を組むことができ、佐高の伝統を受けつぎ、佐中以来の大らかでバンカラな栄城魂を体感することができました。今は生徒数が少ないためゆっくりとした歌が続きますが、千数百名の大合唱とストームリーダーの迫力は今では想像できないようなプレッシャーがあり、16歳の血は大いに熱い状態となったことを強く想いうかべます。javascript:;
ファイヤーストーム 1.jpg

 修猷館高校との対抗戦最終から2回目の昭和41年まで、修猷館へ1年生3年生の折2回行ったことも大きな思い出となりました。修猷館の所在地は今は都会となっていますが、当時は松原の中で、佐賀城内の西高のほうが賑やかに感じられていた時代でありました。卓球部の対抗試合は、福岡県中位とされた修猷館のレベルは高く、いささか圧倒される場面が多かったと記憶します。日本一のマンモス校といわれた佐高時代でも接戦であったとされる対抗戦ですが、3年生の折アウェイの修猷館での対抗戦において勝利し、生徒会の小松総務委員長(3回生)が堂々と勝利宣言をして大いに意気が上りました。
対抗戦はその翌年をもって終了となりましたが、その原因はフォークダンスの女子生徒が佐高時代は多かったのに対し西高となって修猷館と同様少なくなり、修猷館が断ったとの噂がひと頃ありました。昭和28年からの伝統戦で、修猷館記念館中央の年表にもひときわ大きく「昭和28年対佐高戦始まる」と記されていたことから、当時の修猷館の生徒会のメンバーに尋ねると「修猷館生徒会自体に課題があり中止させてもらった」との答えが返ってきました。男子生徒は東京関西方面の修学旅行がなかったため校外に出ることは殆どなかった西高初期の時代に、1年3年の修猷館における対抗戦、2年の福岡市のツタンカーメン展見学は青春の大きな1頁でありました。

 下宿生活3年間の最初の年昭和39年に東京オリンピックが開催されました。県庁所在地の佐賀市は県内でオリンピックの聖火リレーをはじめ関連行事が最も多く行なわれ、多くの思い出が残りました。県庁前の佐賀中央郵便局のそばを聖火リレーが多くの声援の中で通り過ぎたことを昨日のように思い出します。聖火リレーが走った貫通道路すなわち国道264号線は今よりも渋滞が激しく、夕刻のラッシュ時に時折西の高橋から下宿に近い東の材木橋までの数キロメートルを自転車と自動車の競争を試みました。自転車が早かったのですが、これは今でも変わらないと感じています。市川崑監督の東京オリンピック記録映画もその後放映され2000万人の記録的観客数であったとされています。映画の最後の全盛期で有楽、平劇、大洋などの映画館も多くの観客で賑わっていました。

 卒業して50年近く仕事を続けています。何よりもありがたいのはこの長い年月の内に先輩同級生として後輩の方々との交流を通してすばらしい出会いと温情をいただいたことです。その元となる「栄城」誌は偶然ながら創立90周年が昭和41年の3年生の時であったことから、90年誌、100年誌、110年誌、120年誌、130年誌、140年誌の6冊が手元に集まり、読めば読むほどアーカイブとしてのすばらしさに心を打たれます。
歴代総会誌.jpg

 百周年記念誌には佐賀高等学校同窓会会長であった杉町誠二郎氏が生徒会原口一博総務委員長をはじめとした皆さんと対話した記録が残されています。後に佐賀県教育委員会委員長となられた杉町氏は自らの体験をもとに様々な発言をされています。ひとつひとつが的確に教育のあり方を示されており名言が揃っていると感じます。教育委員長退任の折には「生徒を見守ることが教育の基本である」ことを示されました。創立140年記念式典では壇上に着席され、只々嬉しそうにその光景を見守っていただきました。140年記念誌「栄城」の別冊DVDに登場され、「学校の思い出」を尋ねられて「何でも良かった」と、満面の笑みをうかべながら数回続けて述べられました。幼少の頃から数多くの体験を重ねられた杉町氏の母校愛、人間愛はこのDVDにすばらしいアーカイブとして残されました。

 90周年記念誌「栄城」121頁には昭和5年佐賀中学校卒の岩尾新一氏「西めんもん」の記事があります。小生妻の父である岩尾氏は歌人中島哀浪門下でもあり、栄城山脈の一員らしい一文を残されました。
 文中の一節に、「福田恒治こと松平晃は、今は亡いが誠にぐうだらな自由人に見えたが、後年果して有名な歌うたいになった」とあり、藤山一郎と共に一世を風びした流行歌手松平晃の存在により、今では軍人輩出校のイメージが残る佐賀中学校は、本来多彩な人材輩出校であり、岩尾氏にとって松平晃氏は同級生として特筆すべき人であったことが示されました。
 そして最後の一文は次のように締めくくられました。

 私は東京に行く機会が多く良く同窓会に出席するが、卒業後三十五年経った今日では、秋霜を経て一見葉隠精神にも可なり色あせた変化が見受けられるが、一杯呑んでかなり酔って「天山颪」が出る頃になると、やはり争えない「死ぬ事と見付けたり気風」が露見して来て一種の安心感を覚えるのである。

この葉隠の心が弘道館以来の栄城の伝統をつなぐ最も大切な精神であるとして、平成九年村岡総本舗羊羹資料館が国の有形文化財として登録された折、次の祝いの句が岩尾氏より後輩の小生に届けられました。
村岡総本舗.jpg

「葉がくれのその名のごとく村岡は天山山脈のふところどころ」



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