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歴史と私 Ⅲ [会員コラム]

西高6回生 増岡 昭憲
 最近の柏原歴史会は、先生が病気で中断中である。歴史講座の方は「拓本」どり、勾玉」や「須恵器」作り体験をした。
拓本どり.jpg
「拓本」どりとは、発掘物を魚拓みたいに墨を塗って、読み解く方法である。天草の古刹の瓦の拓本を取り古代の寺の建立時代を読み解いて営みを想像してみた。「勾玉」つくりは柔らかい石を削り古代の王の象徴の雰囲気を体感した。
須恵器 作成.jpg
「須恵器」は古墳時代から平安時代に流通していた、弥生式土器よりちょっと進化した土器である。焼きあがるのは来年になる。
 
 10月には6回生の愚友と厳島神社と出雲大社を参拝してきた。通常神社参拝は2礼2拍手だが、出雲は2礼4拍手だった。歴史博物館を訪れ、出雲の荒神谷で発見された大量の銅剣と銅鐸が展示されているのを拝観した。銅鐸は使用目的が謎とのことだったが、ここでは舌(ぜつ)で音を奏でていたらしいとのこと。銅鐸には刺青が入ってる人間の顔が描かれていた。
 
 魏志倭人伝を読んでいると、いくつかの疑問を抱く。邪馬台国と大和朝廷の関係である。歴史学的には邪馬台国が日本の始まりであり、今の皇室のルーツであるとしてる。しかし、いまだにどこにあったかが不明である。「邪馬台国」や「卑弥呼」などは魏志倭人伝に出てくる魏側の呼び名であって、文字を持たない倭国の人々は何と呼んでいたか解らないし「ヤマト」で結びつけるのは無理があろう。私の推してる福岡県南部で古代の吉野ヶ里から遠目で見えたであろう山門郡が畿内に遷都して大和政権を作ったとする説も疑問が出てきた。そもそも邪馬台国は倭国の「クニグニ」の中の一つであり、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こっていた。卑弥呼を女王に共立することによって混乱を鎮め、卑弥呼が 死去するとその後男の王が立てられるが再度内乱となる。そのため、13歳の少女「壹與」が王に立てられ国は治まったとある。しかし南にある狗奴国とは、不仲で紛争していたとのことである。壹與のあとは中国による倭国の記録が途絶えている。倭人は体や顔に刺青をしているとある。日本の歴史上施政者が刺青をしていたとは出てこない。おそらく邪馬台国や出雲のクニグニは縄文人の血を引く刺青の習慣があり、文字を持たない種族ではなかろうか。蝦夷すなわち日本に先住していた縄文人はアイヌ人の先祖ではないだろうか。アイヌは刺青の習慣があり文字文化がなかったとのことらしい。
 暫らくして日本に天皇や皇后の名前が登場しだす。しかも妊娠中に生み月を伸ばして三韓を征伐したとある。九州の多くの神社に残る神功皇后、応神天皇である。神功皇后の夫仲哀天皇は香椎宮で崩御している。日本書紀と古事記では死因は異なる。実際は狗奴国に滅ぼされ、その狗奴国が東征を行い、出雲なども滅ぼして近畿あたりにたどり着き、大和朝廷の礎を築いたのではなかろうかと思われる。  
 しかし歴代天皇で初代神武天皇から10代天皇までは実在していない。11代から26代天皇まではいただろうが、今伝えられてる名前とは違う権力者が入れ代わり立ち代わりいたのではないか。
38代天智天皇のころに今の世襲の天皇制の礎を築いたのではないと思われる。このころ記紀を編纂し、国つくりを含め過去からの流れを神話化して権威づけを図るのである。
 話は変わるが私の父が亡くなった時、檀家のお坊さんが、説法を七日ごとにされた。長生きを願い死ぬ事を恐れ不老不死の妙薬を求めた秦の始皇帝の話をされた。その坊さんのゆうには、「死は必ず来る、避けがたいものだ、いかに功徳を積み、浄土に行けるかを考えることが、死を恐れないこと」だそうだ。
 始皇帝は徐福を日本に遣わし不老不死の妙薬を探させたとのこと。坊さん曰く、佐賀県の三養基郡には徐福の痕跡がたくさんあるらしい。後で徐福の事を調べてみると、数千人の大船団で有明海から九州に上陸している。又徐福伝説は北日本まで広域にわたるが、特に佐賀県に集中している。吉野ヶ里遺跡から発掘された人骨が日本人古来の骨ではなく中国系の人の骨が混じっていたとのことで話題になった。徐福の軍団がかかわっていたかもしれない。始皇帝当時の倭国は縄文人の時代なので、文化、軍事力の差は歴然とし、縄文人を駆逐し、同化して徐々に「クニ」を形成していったのではないだろうか。そのクニが狗奴国ではないだろうかと推測される。
 集広舎の川端氏からいただいた本を読んだら、意外なことがわかった。その本はモンゴルが中国共産党から不当な迫害を受けているが、中国の歴史は今の中国だけじゃなく、北方民族が大部分を形成した。今の漢族の中国の歴史は、たかだか100年足らずである。その中国の不当な振る舞いを糾弾する内容である。当本中に秦の始皇帝のことが書かれている。chinは元々アラブ地域を指す言葉で、遊牧性のあったユダヤ人がいち早く中国へと移動していたらしい。バビロン捕囚時に忽然と消えたユダヤの10部族などと合流して秦国を建国したとのこと。歴史は下ってchinにaを追加してchinaになったとのこと。秦の不老不死の探索は裏では倭国の征服があったのではないか。それとも、徐福が不老不死の妙薬が見つからず帰るに帰れずそのまま居座ってクニを築いたのかは疑問が残る所ではある。 

 先日1週間ばかり娘に会いにハワイに行ってきた。娘は私に気を使ってハワイの出雲大社、金毘羅神社、ハワイ平等院等を連れまわした。
ハワイの平等院.jpg
だが所詮はフェイクであるよとゆうと、それならばとハワイの原住民のヒーリングスポットに連れて行ってくれた。これには大変気に入りました。山の上の森深い所の平地に石がミステリアスに積まれており、なんとなく「気」を感じました。現地の人が時折フラなどを踊り、祭典を行っているらしい。
ハワイ ヒーリングスポット.jpg
 その後娘は私にとんでもないものを見せてくれました。自分のDNAを鑑定したみたいで、それで娘のルーツのDNAが判明したとのこと、娘はカミさんのルーツは以前から何回も聞いて知っていたが、私のルーツは純粋な大和民族と思っていたらしく、そこに描かれている世 界地図は、アジアの全域インドそれにアラブの地区に丸がしてありました。アジアはわかるが、インドは仏教伝来でかなりの仏師が渡来し日本人と同化したとのこと。残るのはアラブ地区の丸これは何だろう?
 
 以上のことを連立方程式に紐解いていき、又少々ベクトル的に無理はあるだろう。結論としてユダヤ人の部族の一部がが中国に移動して秦を興し、その一派が有明海から佐賀に上陸し、先住民を凌駕同化していき、大和政権の基盤を築いたのであろう。輝ける大和民族の源泉は佐賀の三養基から吉野ヶ里地域にある。「二度と行きたくない県1位」と盛り上がっている若者よ佐賀をリスペクトしないと罰が当たるよ。日本は神々に守られている神々(こうごう)しい神ってる国だからね・・・・・


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