西高一回生 鐘ヶ江正之

一回生として佐賀西高で学び1966年に卒業して、はや半世紀が過ぎ去りました。

 私事ですが卒業後、福岡の大学へ進学。経済学とワンダーフォーゲル活動に勤しみ、当時は学生運動最盛期、空母エンタ―プライズの佐世保寄港阻止では過激派の六本松教養学部のロックアウトやら、箱崎の電算機センターへのファントム墜落事故やらを身近に色々経験しつつ無事に卒業証書を頂き、社会人としてのスタートを切りました。

 憧れの半官半民の航空会社へ入社、丸の内でのサラリーマンを期待しておりましたが、初任地は北海道千歳。おかげで札幌オリンピックは目の当たりに見ることができました。その後は東京本社、フランクフルト、大阪、また東京本社、メキシコへ遠距離通勤、大阪、福岡、名古屋、とあちこちへ出稼ぎが続きました。55歳になった時、驚天動地のJASとの合併話が持ち上がりました。火中の栗を拾うような話ですが、大赤字を抱えたJASが倒産すれば後ろ盾の東急グループの屋台骨まで危うくなるという状況で政治的画策の結果、民間企業といえども、国策会社で半官半民の時代を経てきた経緯があり、(競合A社に比べ自民党に取り込まれ易い体質という事もあり)押し付けられる次第となったようです。
 定年になったら福岡へ帰ると家内と決めていましたが、折よく団塊の世代処理として会社が、早期退職者勧奨制度(2年間有給で勉強した後退社、自活しても、60歳までは会社の健康保険、福利厚生を適用する等という優遇措置)が提示されたのに応じ、卒業を5年程早く切り上げて福岡へ帰って来ました。福岡市内で家内の実家の自動車修理会社2社を引き継いで10年間続け、順次整理してやっと65歳でフリーとなり年金生活者の仲間入りを果たしました(その間に会社はJASを吸収合併した結果、大赤字と事故が重なり最終的に破綻してしまいましたが・・・)。

 還暦前に福岡で娘2人が大学を卒業して家を出て自立しました。それからは、家内と二人きりの生活です。さて、毎日が日曜日の年金生活をいかにすごそうか?

 そこで還暦を機に俳句の世界に入門させてもらいました。俳句は、四季・日常の身の回りのことを詠めばいいので、取材は短編小説よりも楽で、季寄せ帖と鉛筆と手帳があれば、いつでも何処でも創作が可能なのです。そこで水原秋櫻子が創始した「鷹」と云う結社の博多の会に入れて頂きました。
恥ずかしながら、この十年間の凡人の拙句の中からいくつか披露させて頂きます。
(蛇足ですが5年前から油絵の勉強を始めておりますが、いまだご披露うできる程の作品
はありませんので、今回は俳句を出させていただきます。)



*福岡栄城会では、同窓会員の方々の投稿をお待ちしております。

投稿先 eijo.fukuoka@gmail.com