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小笠原の思い出 [西高1回生寄稿集]

西高1回生 江口直明

 1968年(昭和43年)6月にアメリカの施政権下に置かれていた小笠原諸島が日本に返還された。太平洋戦争中、東京に疎開した人たちが、故郷の島に戻りたいということから、とりあえず人が住んでいない母島から、現状がどうなっているか調査することになった。それが1972年にことである。折から、佐賀のテレビ局を辞めて、東京の大学に戻っていた私の目にとまったのは、東京都が募集する小笠原調査団のアルバイトであった。事前の説明では、ジャングル化している母島のかつての道路等の様子を確認するための測量が中心の仕事だというが、今ひとつ実感が湧かず、ただ面白そうだから応募してみようというのが正直なところだった。

 東京竹芝の埠頭に集まった人々は、測量士、土木の職人さん、何かの技師さんなど十数人だったが、中でも一寸と気になったのが、爆発物処理の専門家二・三人であった。とは言え、その時はそれ程気にせず、乗り込む船を見ると、これがわずか500t位の漁船である。これで太平洋を1,000㎞も航行するのかと思うと少し不安になったが、今後の冒険に気をひかれそれほどの不安という訳ではなかった。乗組員は小笠原漁協の漁師さんたち。この小さな船に、ジープを乗せてくくりつけ、父島に運ぶのである。いよいよ出発。初めは物珍しさに甲板に出て、周囲をながめていたのだが、その内ただただ海面ばかりの景色に飽き、船底の寝室に入ったところ、異様な風景を見てしまった。部屋の角に当たる部分に木の棒が立ててあって、決して美しいとは言えないアルミのデコボコした洗面器が角と木の間に何十と設置してあった。漁船で小笠原まで行くのに2泊3日は掛かるという。その間、静かな海ばかりではない。慣れない人は船酔いで戻すという。そのときに使う洗面器である。

 鳥島に近づくにつれて、風邪が強くなり、そのまま進むのは危険というので、風を避けて鳥島を風よけにして漂泊をすることになった。これは碇泊と違っていかりを下ろさずに漂うのである。風向きによって島の裏側に行って風を避けるのであるが、余り島に近付きすぎると座礁するし、離れすぎても役に立たない。細かくエンジンをかけ舵を取らなければならないのでかなり技術のいる航法らしい。例の洗面器を役立てていた人がかなりいた。風を避けるといっても、波は船を越え、反対側にいた私に上から降りかかってくる。
 翌朝すっかり収まった波の上に私は生まれて初めてあほうどりを見た。大きな白い身体を見せて2羽のあほうどりが、昨夜の風は何にもなかったかのように、ゆっくりと舞っていた。こうして、小笠原父島に1日遅れの3泊4日で着いた私は、さすがに足元にしっかりとした大地にほっとした。さっそく、船に積んできたジープて宿舎に届けてもらった。
 この父島には人が住んでいて、一寸と不思議な雰囲気があった。それは、住んでいる住民が白人系でしかも東京弁なのである。後に聞いたところによるとオーストラリア系の人たちで、東京都小笠原村の住民ということで立派な東京都民であった。さらに不思議なのは、学校の作り方が、外国映画でよく見る平屋の切り妻型、しかもその敷地が約40㎝位の高さで幅10㎝位の先の尖った白い板で囲ってある。しかも、芝生の上には薪を背負って本を読んでいる例の二宮金次郎の銅像があった。その隣にはキリスト教会があって面白い取り合わせであった。さらには、道交法が適用されているのかは知らないが、子供たち(中学生位か)がバイクに乗っているのである。また、ナンバープレートのついていない車が、普通に走っていた。ある車はホイールを軸に止めている部分が、きちっとしたピンではなく針金でぐるぐる巻きにしたものもあった。修理用の部品も取り寄せるのに苦労するせいか、ほったらかしにしているのかもしれない。
*小笠原諸島、父島にて1968年と1998年同じ場所を見比べています。聖ジョージ教会の写真があります。

*返還当時の父島を8ミリフィルムで撮影。竹芝の埠頭での出港シーンや父島でバイクに乗る少女の映像があります。

 私たちが到着した父島二見港は立派な岸壁が作られ、小規模な自衛隊の基地もあった。売店もあり、「クラブ」と呼ばれるバーもあった。警察官もいたし、それこそ日常生活には困らない施設はあったが、シケが続くとまず生鮮食品から無くなり、次いで一般の食料品がなくなる。一足先に開発されている父島には、多くの作業員他東京都庁の小笠原分室(?)の職員、終戦直後からの住民など結構な人数の人々が住んでいるので、船が着かなくなるとまず食料が不足しはじめる。今でこそ立派なリゾートとして、大型のリゾート船も定期的に行き来しているが、45年以上前の父島は絶海の孤島であることには違いなかった。湾には沈没した軍艦のマストが波の間に顔を出し、戦後27年経った小笠原父島にも、いたるところに戦争の跡が見られた。
*父島の現在の映像!沈没船の今が写っています。
 
 しかし、私たちが目指すのはここではない。当時完全に無人島になっていた母島である。母島は父島から60㎞程離れた海の中にある。小笠原漁協の漁船をチャーターし、とは言ってもこの船は、恐らく数tしかないと思われる、言ってみればお濠などに浮かんでいる手漕ぎのボートを大きくした位のものであって、これに測量器具、各種のロープ類、食料などを積み込んで太平洋の海原へくり出したのである。
 東京竹芝から父島への舟では波が高く大揺れで、ほとんどの人々が、10食予定していた食事の内2~3食しか食べられなかったようだが、私は持ち前の意地汚さで全食食べ尽くした。乗り込んでいた漁師さんが「根性あるね。」と笑っていた。これに比べると母島までの海は穏やかだった。時折り起きる波の腹から、申し合わせたようにトビウオが横一列になって飛び出し、そのまま100m程飛んで一 斉に海に潜る姿や、漁師さんがロープ結び付けた魚の切り身に食いついた1.5m程の小さな鮫を引っぱり上げるところなどを目にしながら3時間程の船旅の後、母島に着いた。

 母島では、戦前からあったのかコンクリートの小さな桟橋が作ってあり、そこに横着けして周りを眺めてみると、幅150m位、奥行き100m位の湾であった。方角が分からなかったが、湾の奥に向かって右側が小高い丘になっていて、100m程の丘の中腹にはレンガ造りのトーチカが見えた。高さ1mもなく横に数メートルあいた四角い横長の穴をトーチカと判断したのは、そこからだと湾全体をやや上から見渡すができたからである。余計なことかも知れないが、トーチカとは、山の斜面などに穴を掘って、銃眼をあけたもの。
 桟橋に荷物を揚げて宿舎に入った。宿舎は母島を開発のために急拠作られた飯場のようなプレハブで、広い空間に全員雑魚寝である。東京都から仕事を受けた各建設会社の職人さんや技師など10数人。私たちは海洋調査と測量を受け持つ五洋建設という会社に雇われていた。ただ有難かったのは、広々とした風呂場が作ってあったことである。水はジャングルの賜物で、美しい湧水が出た。翌日からいよいよ現場で仕事である。
 第1日目は、戦前に作られた道路や家屋の下見である。既に熱帯植物によってジャングル化した場所を、かつての道路と思われる跡を頼りに進んで大体の道路の図を描いて行く。驚いたことに、道路から斜めにずり落ちた形でキャタピラの付いた、先端がラッパ状に少し開いた二連の機関銃が見付かった。銃身の長さはコイル状のバネの付いた根元まで、おおよそ2mはある。私は勝手に「自走式キャタピラ付重機関銃」と名付けた。全体的に赤いサビに覆われていたが、銃身の根元のコイル状のバネの一部はグリースが残って、まだ光っていた。丘の斜面の道路跡を、覆いかぶさった植物を伐採しながら進んで行くと、道からややはずれたところに、明らかに元人家のつぶれた屋根が樹木の間に埋もれていた。作業に入る前に東京都の職員から言われていたのは「この島で戦闘は行われていないので、人骨が出ることはありません。」ということだったので安心はしていたが、やはり廃屋というのは気持ちのいいものではなかった。道路の少し先の方の道路の片方が崖でセリ上がったところに、またもやトーチカがあり、この銃眼は少々広く、中を覗くことができた。3畳ほどの空間の一部に飯盒炊さんの跡が残っていた。しかも、両サイドをY字型の木の枝で支えたやや太目の木の棒に飯盒を通した形で、ついさっきまでご飯を炊いていたかのようだった。まわりには、古びたアルミ食器や茶わんがころがったままであった。手を付けずそのまま少し進むと、道路から1m程下の方にサビで覆われた機関銃が転がっていた。いずれ撤去しなければならないので、道路まで引っ張り上げて、背くらべをしてみると、私よりやや背が高い位であった。形状は、銃身の前の部分には地面に据えられるように2脚のスタンドがあり、根元の方には恐らく照準器と思われる部品や弾を繰り出す装置と思われるものが付いていたが、ベルト状につなげられていたはずの銃弾は見付からなかった。重さはどの位だったろうか、道路に引っ張り上げた時、「こんなものを担いで行軍するなんて、大変な重労働だな。」と思ったのを覚えている。
*ミリフィルムが語る昭和の小笠原諸島 ~母島~

 ある日の朝、「今朝は各自の作業をやめて、浜の方に集まってくれ」という知らせがあり、普段山の方にばかり行っていた私たちは、物珍しさもあって、何となく楽しみな感じで浜辺に集まって来た。今まで単なる砂浜と思って気にも留めていなかった波打ち際が少し変である。近づいて行くと浜はビッシリと銃弾を敷きつめた様であった。弾丸だけもあれば薬莢だけのものもあった。中には、薬莢に弾丸がくっついたままのものもあり、爆発の恐れがあるから、これにだけは決して手をふれるなということであった。弾丸の大きさは長さ約4㎝、直径約8㎜位、薬莢は10㎝位だったと記憶している。弾丸の方だけ10個程そっと拾ってポケットに入れた。
 私が勝手に名付けたキャタピラ付自走式重機関銃といい、二脚付機関銃といい、またこの海岸の多量の銃弾といい、そのまま遺棄されたということは、兵器は兵士より大切であるという日本軍の風潮の中で、貴重な武器より人命を優先して、あらゆる兵器を投げ捨てて退却を命令した指揮官の決断に深く感動したことを覚えている。武器を携帯せずに本土に引き揚げてきた兵士、ましてやそれを指示した司令官が、東京でどのような白い眼で見られたか考えてみると、どんなにか勇敢な決断と行動であったか。このことが先の「ここで戦闘で死んだ人は一人もいない」ということに繋がったのである。
*亜熱帯の草木の中に朽ちかけの機関銃座がチラリと写っています。
 
 朝から浜辺に集まったのは、この母島の湾内の海底から、500㎏の不発弾が発見されたからである。潜水班と爆発物処理班が水中に潜って観察したところ信管は付いたままであることが分かった。海中での処理は困難でることから、砂浜に引き上げてから処理するということで、引き上げの途中何らかの事故で爆発しても被害が少ないように、長いロープを結びつけ、皆んなで引っ張ることになったのである。砂浜に引き上げられた爆弾は直径1m程、長さ1.5m程のずんぐりとした鉄の俵のような形をしたものであった。500㎏爆弾というものを初めて見たが、案外不格好なものだと思った。幸い、海底の砂に触れていた部分に穴があいていて、火薬は流れ出して爆発の危険はないということになった。これで一件落着。

 海がシケると、1週間に1度来る漁船が来られなくなり、途端に食料が不足する。そこで皆んなは、仕事を放り出してそれぞれに食料探しに出かける。ある者は戦前畑だった所に出かけ、野菜や根菜を探し、ある者は海に魚を捕えに行く。潜水班は海に潜って貝類を探し、私たちは野生の山いもを探しに山に向かう。なかなか思い通りに食料が集まらないので、潜水で獲ってきた名も知らぬ大きな貝を天ぷらにして食べようということになったのだが、油で揚げ始めると臭いが強烈でとても口に入れられるものではなかった。それでも勇気あるものがかじっていた。シケは長く続くこともなく、やがて父島から食料が届いたときは、さすがにホッとした。

 ある日の作業中、入口が直径1m程の洞穴を見付けた。この島では戦争で亡くなった人はいないということを聞いていたので、ちょっと覗いてみると、天井の壁にぶら下がっているものがいる。大きさは恐らく30㎝から50㎝位か。眼が慣れてくると、真っ黒の身体でモゾモゾ動いている。刺激して一斉に飛び出して来たら困るので、そーっと退却した。後で聞いた話によると、オガサワラオオコウモリで、我々が本土で見るコウモリとは大きさが違う。はっきり言ってかわいげのない姿と大きさである。以来しばらく仲間内で、余り見たことのない生物には、勝手に「オガサワラ」というのをかぶせて、名前を付けるのがはやった。例えば、鳥のメジロにそっくりなのだが、眼のまわりが黒い鳥がいて、これには「オガサワラメグロ」と名付けた。ずっと後で分かったことだが「メグロ」というのが小笠原の固有種として生息しているらしいことが分かった。
*オガサワラオオコウモリ

*小笠原の固有種を紹介しています。

*小笠原のプロモーション映像!「メグロ」の映像がチラリと見れます。

*小笠原の最新のプロモーション映像!必見!!

*福岡栄城会では、同窓会員の方々の投稿をお待ちしております。
投稿先 eijo.fukuoka@gmail.com

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