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だん碁通信 9月号(令和1年9月19日) [令和元年 同窓会活動]

「暑さ寒さも彼岸まで」やっと心地良い風が吹いた9月19日、日本棋院九州本部にて恒例のだん碁会を開催しました。

今回は碁会に5名、懇親会に6名の参加でした。

◇ いつも通り、熱戦とワンポイントレッスン♪

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囲碁はシンプルに地(自分が囲ったエリア)が広い方が勝ち。

対局が終わった時点で、それぞれの地の広さを数えやすくする「整地」の仕方をレクチャーしてもらいました。

囲碁は「図形」として眺めても楽しいゲームです。

まっさらな碁盤の上に自分の思いを描いていく「創作のゲーム」とも言えるでしょう。


◆ 今回は、すこしソフトな話題を。

女性プロ棋士たちが立ち上げたホームページ。

https://joryukishi-photobook.amebaownd.com/

中を見ていくと囲碁に関する様々な情報が提供されています。

ちょっと「柔らかすぎる」(?)感もありますが、女性棋士有志が「自主的に」企画したという心意気を応援してあげてください。


※ 次回は10月17日(木)18時から ※

問合せ:eijo.fukuoka@gmail.com

(文責:西高10回生 川崎)





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福岡栄城会 の成りたち [西高2回生寄稿集]

第8代会長  清村 克行(西高2回生)

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開催会場に掲げる横断幕、「福岡栄城会」指定書体

 昭和47年8月からここ福岡でのサラリーマン時代は、眼の前の仕事に追われ、人の世話などすることも出来かった。昭和60年12月、自分の会社を設立。独立して初めて周りが見えてくるようになる。何か人のためにできることはないか・・・
 
 昭和61年の年始めに、福岡にも佐賀西高校の同窓会を作ろうと思い立ち、本部の同窓会名簿から福岡近郊にいる「自営で、転勤の少ない人」を各学年幹事に半強制的に選び、彼らを中心に福岡近郊在住者(筑後川から遠賀川の範囲)に案内はがきを出した。
 その年の11月に「佐賀西高等学校福岡同窓会」の設立総会を開催し、会長に1回生の最所憲治先輩、私が副会長(事務局兼任)、会計に3回生の牟田哲朗君という体制でスタートしました。昭和62年11月に「佐賀西高等学校福岡同窓会会員名簿(掌握会員数630名)」も完成させた。
 
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昭和62年11月の西高名簿

 当時はまだ、佐賀中学は栄城同窓会福岡支部、佐賀高校は佐賀高校同窓会福岡支部など、別々に開催されておりました。
 各地の「栄城関係三校の同窓会」の合流の流れを見てみると、最初は、関西栄城同窓会です。早々と昭和56年に三校が一体化しておりました。そして東京栄城同窓会が昭和61年に一体化しており、本部佐賀は、他地域の動向をみて、平成10年から一体化の流れが始まり、2年の準備期間を経て平成12年10月に一体化しました。
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 福岡では、西高の福岡同窓会を立ち上げた後、私が別の佐賀の集まりである「福岡市佐賀県人会」の関係で、中央区の高砂(当時同じ町内)に住んでおられた森 泉先輩(佐高1回生・森医院 院長・佐賀高校同窓会福岡支部長だった思う)と主治医として懇意させて頂いておりました。その森先生から西高同窓会の三役である3人が、佐賀中学の会合に誘われました。佐賀中学の同窓会世話人会(通称、すきやき会)が真崎寅二郎先輩(通商産業省勤務・昭和8年卒)の関係で博多駅東の合同庁舎近くの通産省の関連施設「九州商工協会筑紫寮」で不定期に開催されておりました。中学同窓会の主な行事や事案が協議されていたように思います。
 
 西高福岡同窓会という「受け皿」ができたこともあり、そのすきやき会で三校合流の話がでて、一体化への協議が開始されました。佐賀中学の先輩の中には、「佐高とか、西高とかに、伝統ある『栄城』の名前は使わせない」という意見もありましたが、当時の佐賀中学栄城同窓会福岡支部長であった永倉三郎氏(九電会長)の『栄城の流れを継いでいるのは、佐高と西高だし、どうせ先々お世話になるのだから、早めに合流した方がいい』という、鶴の一声で合流が決定しました。そして福岡は本部の下部組織ではないと、支部ではなく「福岡栄城会」と名付けられました。
 
 昭和63年に合流の準備にはいり、平成元年8月に「第1回福岡栄城会総会」を開催することが出来ました。会長に佐賀中学の永倉三郎先輩(昭和2年・第43回卒)、副会長に佐賀中学の真崎寅二郎先輩(昭和8年・第49回卒)、同じく副会長に佐賀高校の森 泉先輩(昭和25年・佐高1回卒)、そして同じく副会長に佐賀西高の最所憲治先輩(昭和41年・西高1回卒)という体制でスタートです。掌握会員数は佐賀中学約500名、佐高約1700名、西高約600名という大所帯でした。30年前のスタート当時は、先輩たちは元気で、総会出席者160名の半数近くが佐賀中学で、次いで佐高生、西高生は20余名と寂しいものでした。
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第4回・当時の会場配布レジメ(コピーのホッチキス止め)
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第5回の打合せ用レジメ

 
 佐賀中学、佐高、西高からそれぞれ年次の当番幹事を出し、順送りで開催してきました。佐賀中学同窓会と佐高同窓会はスタートの時から一体化しておりましたが、西高同窓会はまだ単独でも開催しており(平成3年、平成8年、平成14年、平成19年に開催)、当番幹事が西高生のみとなる平成20年にやっと完全に一体化が出来ました。「西高のみでやっていけるか」と心配しましたが、無事引継ぎが出来て安心しました。
 そしてその平成20年に一体化の証として、『福岡栄城会の横断幕』は佐高16回生の草場桂子さんが平成19年の佐高最後の当番幹事のとき揮毫された横断幕を基に作成し、また『福岡栄城会旗』は、本校の校章の「高」の代わりに「栄城」を中心にカチガラス3羽(佐中・佐高・西高)で囲み、開校以来の教育方針である「鍛身養志」「質実剛健」を基に私がデザインして作成し、毎年の同窓会総会最後の「引継式」の際に、次回当番幹事へと引き継いでいます。
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「福岡栄城会旗」

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次回当番幹事への「福岡栄城会旗」引継ぎ式

 現在は、60歳という還暦の年に当番幹事となり、50歳、40歳と三回期生合同の実行委員会で、企画・運営され、開催されています。

 縁あって、同じ学び舎で3年間を過ごしただけの仲間たち。だからこそ、縁深き仲間たち。学年が同じ同級生という「横糸」と、年次の離れた同窓生、先輩と後輩という「縦糸」は、140余年もの歴史的重みをもち、日本の各地に「栄城山脈」として根を張って、広く厚く織り込まれ、脈々と連なっている仲間たち。
 同窓会は伝えてくれる人がいて次に繋がっていき、支えてくれる人がいて次に受け継がれていくものです。
令和 元年9月    当時を知る者としての記録です。


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「思い出」&「記憶」 [西高2回生寄稿集]

西高2回生 田 中  隆

 母校を旅立ってから半世紀、在学時の思い出、さてと考えていました。
 学校から約1 0km離れていた神埼から通学してたので入学当時は学校の行き帰りだけで精一杯でした。
 そう言えば何年生の時と考えたら忘れてしまったが友人に誘われて【 図書部】と言ってたクラブに所属してたことを思い出しました。
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 部室は図書室の一角にありそこに部員が集まりわいわいがやがやと、何かがあるわけではなしに話してた事を思い出しました。
 たまに読後感想会が開かれ、それぞれが意見を出し合い、和やかな雰囲気がありました。
 ある時、 小林多喜二の蟹工船が題材になり感想を求められて、 チンプンカンプンな発言をし失笑をかってしまった事を覚えてます。
 今思い出せば苦いではで は な く 淡 し 颯い 出 で す 。
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私を惹きつける台湾―台湾に残る「日本精 神」と「日本建築物」 [西高2回生寄稿集]

佐賀西高二回生 早川 悟


 最近の交通機関には必ず優先席が設けられていますが、その優先席に若者や健常者が堂々と座って居り、体の不自由な人が乗ってきても知らん顔をしている情景をよく見かけます。そんな時、私は暗い気分になると同時に自分の高校時代を思い出します。高校時代、私は三田川(現在:吉野ヶ里町)から佐賀までバス通学をしていましたが、ご老人や身体の不自由な方を見かけたら必ず席を譲っていたと記憶しています。当時は優先席みたいな特別な席は設けられてはいなかったと思います。今では必ず優先席が設けられており、優先席と分かるように表示されています。それにも関わらず、身体が不自由な人が乗ってきても、スマホをいじって知らん顔をして優先席に座り続けている若者を見ると無性に腹立たしくなります。

・台湾人は親切で老人にやさしい
 私は、仕事の関係で、中国、台湾、韓国に良く出掛けました。現役を引退した今は、観光で台湾に頻繁に出掛けています。何故台湾かというと、台湾は食べ物が美味しく、大変親日的であり、老人に優しく、居心地が良いからです。台湾では、私のような杖をついた老人を見かけると、皆さん必ず席を譲ってくれます。台湾の交通機関は、日本よりも多くの優先席が設けられています。台湾でも混雑時は優先席に健常者の方が座ることがありますが、その健常者は常に周囲に気配り・目配りをしており、身体の不自由な方やご老人が乗ってきたら直ぐ席を立って譲ります。またある時、地元の人に片言の中国語でバス停の場所を尋ねたら、言葉で説明するのは難しいからとバス停まで道案内してくれました。台湾人は弱い人にやさしく、誰にでも本当に親切です。

・「日本精神(リップンチェンシン)」
台湾人のこの「やさしさ」「親切さ」はどこから来るものでしょうか。自己中心主義が蔓延する中国大陸の人達にはないものです。50年に及ぶ日本統治時代の学校教育、「道徳教育」「修身教育」によるものだと思います。戦前世代(日本語世代)の台湾人が好んで使う言葉に「日本精神(リップンチェンシン)」という言葉があります。「日本精神(リップンチェンシン)」とは、「勇気」「誠実」「勤勉」「奉公」「自己犠牲」「責任感」「遵法」「清潔」といった精神を指す言葉です。台湾では、この精神が戦後の世代にも脈々と引き継がれています。昨年退官された台北駐福岡経済文化弁事処・処長(総領事)の戎義俊氏も母親から「日本精神(リップンチェンシン)」をよく聞かされたと語っています。戦後の日本人が失くしてしまった「日本精神」や「武士道精神」が台湾人には脈々と引き継がれているのです。
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・団塊世代と「造反有理」
 日本でこの良き精神文化である「日本精神」「武士道精神」が失われてしまったのは、GHQの占領政策に因るものと言われますが、我々団塊の世代の責任も大きいと思います。高校三年生の時(1966年)に、中国では「文化大革命」という狂乱の大衆運動が勃発しました。小野久馬先生の「政治経済」の授業で、この騒乱勃発のことを習ったのを思い出します。当時は、何が始まったのか、何が起きようとしているのか、良く分かりませんでした。騒乱勃発当初は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治運動だと思っていました。しかし、その実態は大躍進運動の失敗で権力中枢から外されていた毛沢東が、自分の復権を図る為に仕掛けた権力闘争だったのです。紅衛兵と呼ばれる少年・学生・若者らと大衆を扇動し、政敵(劉少奇国家主席や鄧小平ら)を失脚させる為に仕掛けた大衆運動だったのです。この運動のスローガンとして使われた言葉が、毛沢東語録の「造反有理」「革命無罪」です。「造反有理」とは、「造反(謀反)には正しい道理(理屈・理論)がある」という意味で、「革命無罪」は「革命は罪にはあたらない」いう意味です。この大衆運動で、政敵とされた劉少奇国家主席は獄中死しました。政敵とは全く無関係な多くの人達もが犠牲となりました。正確な数字は不明ですが、「文革」による死者は2千万人とも、4千万人とも言われています。
 この毛沢東語録の「造反有理」「革命無罪」の思想が、我々団塊世代の学園闘争や政治闘争に大きな影響を与えました。「造反有理」に共鳴した我々団塊の世代が、今までの良き「日本精神」「武士道精神」をも崩壊させてしまったと思います。そういう意味で我々団塊の世代の責任は大きいと思います。

・親日的な台湾人
 台湾統治50年、朝鮮統治35年、学校教育をはじめ同じような統治政策が行われたのに、日本に対する国民感情は台湾と韓国では大きく異なっています。何故台湾は親日的で、何故韓国は反日的なのでしょうか。台湾が親日的なのは、列強諸国の植民地政策とは違って、日本は積極的にインフラ投資を行い、殖産興業を図り、現地人の教育に力を入れたからだと良く言われますが、それだけではないようです。台湾の場合、日本が引き揚げた後に入ってきた大陸の人間(外省人)が余りにも酷かったからだと思います。
 1947年2月28日に、大陸からの官吏や兵士達(外省人)の腐敗、強奪、横暴に不満を募らせた台湾民衆(本省人)が蜂起した「二二八事件」が起こりました。この「二二八事件」を切っ掛けに、知識階層の台湾人(本省人)の一斉摘発・処刑(白色テロ)が始まりました。推定で数万人の台湾人が殺害されたと言われています。1949年12月に国共内戦に敗れた国民党政権は台湾に逃げ込んできました。国民党政権は、1949年5月から1987年7月まで38年間戒厳令を敷いて一党独裁の権威主義的な恐怖政治を続けました。台湾人の親日感情は、戦後に大陸から移ってきた国民党政権に対する失望や反感の裏返しの側面もあったのではないかと思います。
 この一党独裁の政治に終止符を打ち、政党結党の自由、国会議員選挙、総統直接選挙と民主主義の国家体制へと変革を進めたのは、日本語世代(台北高等学校卒、京都帝国大学在学時・学徒出陣)の本省人である李登輝総統です。李登輝総統による「この無血革命とも言える変革」は、絶賛に値するものだと思います。

・中華思想と反日感情
 韓国、中国が反日的なのは、中華思想が影響していると思います。中華思想とは、「天子が統治する中華(中国)が世界の中心であり、中華に統治されない地や中華に朝貢しない地は化外の地(文明の及ばない卑しい地)という中華民族(漢民族)中心主義の思想です。朝鮮(李氏朝鮮)は「中華を支える」「小中華(小華)」を自認してきた国です。中華の文明が及ばない化外の地は、北が「北狄」、東が「東夷」、南が「南蛮」、西が「西戎」です。日本は文明度の低い東夷の国(「倭国」)であり、日本に支配されることは「中華」や「小華」の国の人達のプライドが許さないのです。そもそも台湾は「化外の地(東夷)」と呼ばれていたので、台湾人(本省人)には中華のプライドは無いのだと思います。
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・日本統治時代の建築物
 韓国では、日本統治時代の匂いがする建物はことごとく打ち壊され、今日何も残っていませんが、台湾では、日本統治時代の建造物が数多く残っており、現在も活用されています。台湾総督府(現・総統府)、台湾総督官邸(現・台北賓館)、台北州庁(現・監察院)、台湾総督府博物館(現・国立台湾博物館)、台南州庁(現・国立台湾文学館)、台南警察署(現・台南市警察局)、高雄市役所(現・高雄市立歴史博物館)、台北帝国大学(現・国立台湾大学)、台北高等学校(現・国立台湾師範大学)、新竹駅舎、台南駅舎、高雄駅舎など数え上げれば切りが有りません。
旧台湾総統府.jpg
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旧・台南州庁(現・国立台湾文学館).jpg
台南 1932年開店・林百貨店(2014年再開業).jpg
旧・高雄駅駅舎(現・高雄鐵路展示館).jpg

 木造の建造物も修復を加えながら出来るだけ残そうとしています。台湾東部を旅行した際に、車窓に瓦屋根の日本家屋群を発見して大変感動しました。この日本家屋は台湾東部に開拓民として入植した日本人が住んでいたものです。補修を加えながら、今も台湾人(原住民・アミ族)が暮らしているのです。
菁桐(チントン)炭鉱の日本家屋群.jpg

 台湾に入って来た国民党政権も当初、日本統治時代の匂いがする建造物や記念碑は徹底的に取り壊し、日本の名残を消し去ろうとしました。特に徹底して打ち壊した建造物は神社です。神社はことごとく打ち壊して、国民党軍の戦死者を祀る「忠烈詞」や「関帝廟」などの道教寺院に変えました。台北市にあった「台湾護国神社」を取り壊して「中華民国忠烈詞」に変えました。台北市を見下ろす高台にあった台湾鎮護の「台湾神社」を取り壊して、その広大な跡地に蒋介石夫人が経営する中国建築様式の豪華ホテル「円山大飯店」を建てました。また、日本人の銅像はことごとく撤去し、残った台座の上には国民党政権の象徴である蒋介石像を建てました。

・台湾正名運動
 台湾正名運動とは「中国」「中華」「CHINA」という呼称を「台湾(TAIWAN)」に改め、台湾の存在を「中国の一部」から「中国とは別個の地(別個の国)」に変えることを目標にした運動です。今日の台湾は極めて民主主義国家なのに国際的には孤立しています。その背景は、中華人民共和国(中共)が「台湾は中国の一部であり独立を認めない」と主張しているからです。「中国の一部」とか「独立を認めない」とはおかしな話です。
 中華民国以外の大陸政権が台湾を支配したのは、清王朝時代のほんの一時期(約200年)だけです。その清王朝は台湾を「化外の地」と位置づけており、真面目に統治してはおりません。ましてや中共が台湾を支配したことは一度もありません。「台湾は中国の一部」と言うのは無理があります。「ベトナムは中国の一部」と言うのと同じです。台湾は既に独立した立派な国家です。共産党一党独裁の恐怖政治の中共より、台湾の方が自由であり民主的であり国民本位であり、立派な独立国家だと言えます。
 ところが、中共はあらゆる国際的な機関から台湾を締め出そうとしています。1971年10月、国連の常任理事国の座を中共に取って代わられた時、蒋介石は国連を脱退し中共を承認する国と国交を断絶しました。この時の蒋介石の判断がまずかったと思います。その後の台湾の苦労、苦悩はこの時から始まったのです。民主主義国家になった今日も台湾は国連に加盟復帰出来ずにいます。それは常任理事国となった中共が拒否権を行使して反対するからです。
 私は、「中華民国」という虚構の国名を早く捨てて、「台湾共和国」と名称を変えた方が良いと思います。また、公営企業や団体名などにも多く使われている「中国」「中華」「CHINA」も早く「台湾(TAIWAN)に改めるべきだと思っています。虚構の名称を使い続けているから紛らわしいのです。「中華民国」と言っているから、歴史を知らない世界の人々に「台湾は中国の一部」と思われるのです。

・むすび
 「日本は同胞の台湾を二度捨てた」と台湾では言われます。一度目は、1945年にポツダム宣言を受諾して台湾の施政権や公有財産を放棄し、その権利を台湾人ではなく蒋介石政権の手に渡したことです。二度目は、1972年に中華人民共和国と「日中共同声明」を調印し、それまで国交のあった台湾(中華民国)と断交したことです。台湾を捨てた日本政府は、その後の台湾の苦悩に対して目をつぶり無関心を装ってきました。
 「今日の香港、明日の台湾、明後日の沖縄」です。覇権主義を強める中国(中共)に対して日本と台湾は運命を同じくしています。日本と台湾は、運命共同体としてもっと強く結び付き合うことが必要です。台湾を国際的な機関から締め出そうとしている中国(中共)に対して、日本はもっと強く反対すべきです。メディアには、台湾を取り巻く国際状況や台湾の現状をもっと取り上げて欲しいと思います。
 我々日本人は、台湾の「親日」に甘えるだけでなく、民主主義や人権、倫理観などの価値観を共有する隣人の問題として、台湾問題には正面から向き合うことが必要です。

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