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佐中から佐高へ!戦争末期から戦後が青春時代! [佐高生(1~16回生)寄稿集]

佐高2回生 中島 洋

 私は昭和20年4月に、旧制佐賀中学校に入学しました。
 戦争末期であり、上級生の姿はなく、新二年生が上級生風を吹かせていました。五年生は実質存在しなかったと思われます。三、四年は軍需工場へ動員され、在校されていなかったのです。
 何時であったか時期ははっきり記憶していませんが、二年生が全員居なくなりました。先生から通信兵として、徴用されたと知らされました。
 私達も食糧難から干拓地や金立山の開墾、農家への麦刈り奉仕等に、追われていました。
 学校では運動場の塀に沿って耕され、南瓜や甘藷等が植えられていました。
 敗戦迄の一時期、一年生も飛行場の爆撃跡の整備の為、交代で動員されていたのです。
 中学校には軍事訓練の為、配属将校が配属されていたのですが、末期にはその人員もなくなり、購買部の職員であった方が、昔、下士官であったことから、指導されることとなる一幕もありました。

 戦争が終わると、動員組も帰校し、軍隊からも続々と帰還され、大変な賑わいとなりました。
 更に日時を経て、中国・朝鮮・台湾等から引き揚げた学生が転入して来たのです。
 混乱が続いているある日の朝礼で、校長先生が訓示を行っていたのですが、その中で「マッカーサーさん」がと言われた時、ブーイングが起り止りませんでした。
 その後、四年生を中心にストライキが起りました。私達低学年には内容は知らされないまま。終息していました。

 インフレはひどく。物資はなく、パン一個買うにも食券が無いと買う事も出来ない有様でした。

 学制の変更があり、新制中学生となり、男女共学へと進んで行きました。
佐高1回生卒業クラス写真.jpg
 *スカーフの女性は成美、他の女性は高女出身。男性の服装も、まちまちであった。

 八十も半ばとなった今、仲良く福岡地区の同期会を行っています。

*佐中・佐高、学校変革より
 昭和20年(1945年)
・3月 戦時特例として5・4年生を同時に卒業させる。
・8月 4年生は長崎県川棚海軍工廠、3年生は大日本化学諸富工場(現在、味の素(株)佐賀工場) に動員中であった。
*福岡栄城会では、同窓会員の方々の投稿をお待ちしております。
・特に佐高の諸先輩方からの「思い出」を募っています。
投稿よろしくお願いいたします。
投稿先 eijo.fukuoka@gmail.com

タグ:佐賀中学校
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