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かつて、ファイヤーストームを昼間に実施したことがある! [佐高生(1~16回生)寄稿集]

 今年は9月9日(金){台風12号の為7日を変更}に母校にて恒例のファイヤーストームが開催されます。
 母校沿革に拠りますと、昭和25年に旧制佐高の伝統を受け継ぎ始められたもので、60年を超えるイベントとなっています。
 ところで、「昭和29年10月 学校祭の前日、ファイヤーストームを(昼間)実施」との不思議な記載があります。
 つきましては、佐高8回生HP「佐高八期会ホームページ」に、その原因と如何にして「夜間ストーム」に戻したかを簡潔に書かれたエッセイがアップされていましたので、著者の許可を頂き、転載いたします。

ファイヤーストーム.jpg

佐高時代の思い出
佐高八期生・昭和32年3月卒業 石井 浩四郎
 私が3校分割前の佐高3年時に、創立80周年の記念祭に参加したことを思い出し、 この時の記念誌「栄城」を読み返して、一挙に懐かしさがこみあげてきた。私はこの記念誌には昭和31年、我々の3年時に実現した「夜間ストーム」について、 若き日の感慨を率直に表した一文を載せている。
 当時、旧制高校生に憧れて新制佐高で復活させたファイヤーストームだったが、 数年前に先輩方の当時の副校長をプールに放り込むという勇み足があり、 以来夜間ストームが禁止されていた。 止むを得ずファイヤーストームを体育祭の昼休みの真っ昼間に実施する有様で夜間ストーム の実現は我々当時の男子佐高在校生の悲願だった。
 私は佐高2年時に、佐高祭の前夜祭としての「夜間ストームの」実現を公約して立候補、 多数の支持を得て総務委員長に当選した。 委員長として「夜間ストーム」の実現のため学校側との折衝を開始したが、 学校側のガードが固くなかなか進まない。
 当時の学校側は我々の先輩方が起こした不祥事を考え「夜間ストーム」などとんでもないという。 生徒側は昼間のファイヤーストームなどナンセンスと団体交渉さながらに毎日学校側と交渉した。 この間我々の本気度を表すために、当時佐高祭で人気だったバザー券の返上運動を起こすとか、 果ては佐高祭のボイコットとかの声まで上がり、生徒側が抵抗した。
 結局この年は佐高祭の前夜祭として16時~18時に「薄暮ストーム」と言う形で妥協した。
 我々の願望の実現に一歩近づき、私が3年時の翌31年度にはまた同じような交渉を繰り返し後、 最終的に「夜間ストーム」が実現した。

ファイヤーストーム 1.jpg

 即ちある知恵者のアイディアで佐高祭の前夜祭として佐賀測候所が発表する正式な「日没時間」 から2時間のストーム実施と言う極めて科学的で分かりやすい結論だった。
 これで数年間に亘った夜間ストーム騒動は決着を見たが、 私の高校生活の心身の大半を捧げた大きな出来事で今思い出しても興奮してくるような一連の出来事だった。
  面白いことにこのストームが日没時間から2時間と言うルールで西高、 北高で今なお延々と続いているとの事、驚きと共に心の中では快哉を叫びたい気持ちだ。

ファイヤーストーム 2.jpg

* ファイヤーストームの思い出! 投稿、お待ちしております!!
eijo.fukuoka@gmail.com

■併せて、卒業50周年記念誌に石井先輩が投稿されたエッセイをご紹介します。

佐高卒業50年

佐高 校門.jpg もう50年も経ってしまった。昭和29年4月佐高の門をくぐったが、考えてみると昭和29年と言えば、終戦から10年も経っていない、いわばまだ混乱の時代だった筈だ。しかし振り返ってみれば我々の高校時代は物質的には恵まれなかったとしても、心豊かな楽しい時代だった。
佐高 朝礼.jpg 当時の佐高はご承知のように1学年20級1000人、全校で3000人という今では考えられないマンモス校だった。全校生徒が入れる講堂はなく全校集会は運動場という有様で、校舎も3つに分かれていた。
佐高 3校舎 配置図.jpg
*西校舎:旧佐賀中学校 東校舎:旧佐賀高等女学校 南校舎:旧成美高等女学校
 1年次には旧佐中の西校舎には行けないことが判っていたが、せめて東校舎にと思っていたがこれも見事にはずれ、最悪のぼろ校舎南校舎だったのでがっかり。それでも珍しく男女共学クラスだったのと、クラスは違っても同じ南校舎に中学時代からの“憧れの君”がいたのは幸せだった。窓越しに彼女の姿を追い続けたものだった。特に体育館で活躍している姿が私の席からちらちらと見え、その時間はいつもよそ見の連続だった。
 
 教師の思いで
 1年の時の担任は国語の犬塚先生、2年時は数学の元村先生、3年時は小寺先生それぞれに思い出深い。犬塚先生は同期の犬塚君のお父さん、元村先生は中学時代から教えを受けていたし、小寺先生には説教ばかり受けていてそれぞれ思い出深い。始業のベルと同時に現れる英語の「消防車」こと桜井先生「星落秋風五丈原」を教えて貰った漢文の江頭先生、後述のストームの件で心配を掛けた小日向先生、生徒会の世話役だった田中(文六)先生、小野先生も忘れがたい。3000人の生徒だから先生も多分150人を越えていたのではと思う。3年間で一体何人の先生に教えを受けたのだろうか。宮田校長の「天皇」に始まり、エボナイトのように色が黒いからと「エボ」、世界史の「部隊長」体育の「芋ン子」、化学の「ション八」生物の「ルート8」等々のニックネームも本名は忘れても忘れていない。
佐高創立80周年記念 教職員集合写真.jpg


新聞部生活
 1年の時は新聞部に所属した。新聞部の正式名称は「佐高新聞編集局」というもので何とも厳めしい呼び名で、部室はあこがれの西校舎の総務室の隣にあった。
 当時の新聞作成は部員数人で何の制約もなく自由に取材が出来何でも書くことが出来たが、割と健全で特に粋がって反体制的な事を書くことも無かった。
佐高 講堂 演壇.jpg 新聞部時代の最高の思いではs29年6月にノーベル賞の「湯川秀樹」博士にインタビューしたことだ。どういう経緯かは忘れたが、博士が佐高講堂で講演をされその後新聞部の記者として校長室でお目にかかりインタビューした。何をどうお尋ねしたかはすっかり忘れたが、当然この記事が1面トップを飾った。
 その次にやはり講演に来られた大先輩「高田保馬」先生にもインタビューしたのも思いで深い。佐高の新聞記者として1年生ながら大役を仰せつかったのは全くのラッキーといえる。しかし当時年10回のタブロイド版の新聞発行はかなり厳しい負担で、締め切り間際には原稿書きで何回も徹夜をしたが、家が近かったので良く母が心配して夜食を持ってきてくれた。
 当時新聞の印刷はどういう経緯か知らないが、福岡の西日本新聞社で印刷していた。原稿を書きあげ、割付を終ると原稿を新聞社に送り、ゲラが出来上がる頃を見計らって部員4~5人で福岡に出張、午前中に校正を終わると午後一杯夕方までが自由時間で良く皆で中州や天神で映画見物、夕方新聞社に戻ると印刷が出来上がっている。
旧博多駅.jpg それからが最大の難行が始まり刷り上がったばかりの全校3000人分の新聞を手分けして荷造りし、それぞれ肩に担いで市内電車、汽車、バスを乗り継ぎ佐高まで新聞を持って帰った。旧 佐賀駅.jpg勿論50年前の事で宅急便などと言う便利なものがない時代の力仕事だったが、汽車賃、食事など所謂官費だったので喜んでやっていたのを思い出す。
 1年生の時には朝日新聞社、西日本新聞社、北九州大学の高校新聞コンクールに入賞し、出張扱いで表彰式に行ったのも誇らしい思い出になっている。

総務委員長
佐高生活 手帳.jpg 1年生の終わりの頃生徒会長のI先輩から次期生徒会長(総務委員長)の選挙に立候補するよう口説かれた。新聞部室が総務室の隣だったので総務の様子は大体判っていたし、中学時代にも生徒会長を経験していたので思い切って立候補した。選挙は3人が立候補し争うことになり、私は“夜間ストーム”を公約として選挙に臨んで首尾良く当選した。
 直ちに仲間の総務委員の人選即ち「組閣」に入ったが、市内主要3校のバランスを取った方が良かろうと言うことで、成章、城南、附中から選ぶことにして皆さんの推薦を受けた人を訪ねていって入閣を依頼した。勿論自分では喜び勇んで、それまでは遠くから眺めるだけで話すチャンスも無かった、我が“憧れの君”に真っ先に交渉に行き快諾を得、総務委員会のメンバーに入って貰った。当時人には言えなかったがここらが本音だったのかも知れないし彼女と親しくなれたのは本当に嬉しかった。
 総務委員会の活動は10人と仲間と一緒に楽しかった。いつも放課後は西校舎の西の隅にあった委員会室にたむろしてダベったり寮歌や応援歌など高吟したりで過ごしながら、良くガリ版を切った。なにせ60クラスにお知らせを出すのもコピーのない当時はガリ切りが大きな仕事だった。
 私は悪筆でガリ切り要員には全く役に立たず、委員の“我が君”は字がうまく大活躍してくれて人選が正しかったと密かに快哉を叫んでいた。
 総務時代には、視察旅行と称して熊本、鹿児島の高校を訪ねて廻ったのが最大の思い出かも知れない。学校の授業時間中に観光をかねて旅行出来るのだから何とも楽しかった。
 
 夜間ストーム
 佐高時代の最大の思いでは何と言っても「夜間ストーム」だ。「夜間ストーム」を最大の公約として総務委員長に当選した私だったが、「ストーム」は前期委員長私の任期中の行事ではなく、後期委員長のM君の任期中の行事であり公約しながら自分では直接手を出せないもどかしさがあった。
 そこで妙案考え「ストーム実行委員会」を立ち上げ私はこのリーダーとして「夜間ストーム」の実現を目指した。佐高のストームは我々の数年前の先輩が夜間ストームの後荒れて問題を起こし、以降数年間「夜間」のストームが学校側から禁止され、体育祭の昼休みつまり真っ昼間にファイヤーストームをやっている有様だった。
 それを是非「夜間」のファイヤーストームとして実施したいというのが我々の悲願であった。
 「実行委員会」の名の下に学校側に佐高祭の前夜祭としての「夜間ストーム」の許諾を要求しあの手この手で折衝した。2ヶ月近く続いた折衝は連日、時には深夜まで続き、非常手段として一旦売り出していたバザー券の返上運動を実施したり、生徒会議長団が辞任してみたりといろんな手段で学校側の弾圧?に対抗した。
 今思えば良くも馬鹿馬鹿しい事をやったと言う気もするが当時は本当に真剣だった。最終的には学校側の「薄暮ストーム」即ち日没時(気象台の発表の日没時刻)にストームを開始すると言う提案で妥協が成立、我々は「夜間ストーム」を断念し「薄暮ストーム」で涙を飲んだ。
佐高 夕暮れ ファイヤーストーム.jpg

 最後は学校始まって以来と言う始めてという授業中に生徒議会を開催して「薄暮ストーム」を了承すると言うおまけまで付いて交渉は終わり、それ以降の「薄暮ストーム」方式が確立された。ちなみにこの日没から始める「薄暮ストーム」方式は長い間、西高になっても長く継承されていると言うから驚きだ。
 いよいよ鋭意準備を進めることになり、1年坊主に対する歌と踊りの演習、リヤカーを引いて佐賀駅からの枕木運搬、薪集め、重油の購入、リーダー、警備陣の編成等の準備作業で毎日放課後を忙しく過ごした記憶がある。
 
昭和31年 ファイヤーストーム.jpg

 当日11月9日夕、我々リーダーは剣道着に袴姿でストーム旗を持ち参集、日没時きっかりに円陣の真ん中のファイヤー点火、O君の「いざや歌はむかな我等が若き日の歌を、いざや踊らむかな若き日の感激を」の高らかな巻頭言でストームが開始された。
 日が暮れ夜の闇の訪れとともにファイヤーは天も焦がせと燃え上がり、いやが上にも気分は高潮し「佐高讃歌」「佐高逍遥歌」「佐中校歌」「旧制佐高寮歌」「デカンショ節」「北筑遠征歌」「戦勝歌」「旅順校寮歌」等々歌い且つ踊りまくり、それまでの苦労を吹き飛ばした。
 2時間後学校側との協定通りストームは整然と終了した。ちなみにこれらの歌は50年後の今でもはっきり記憶に残っており、「佐高逍遥歌」を8番まで宙で完全に歌えるのは若き日の言い思い出だ。
 「夜間ストーム」終了後、火の始末と後かたづけの名目で、燃え残りの「ファイヤー」の廻りに我々リーダーが集まった。浪人中だったいI先輩も来られ、自然に今で言う2次会となった。火事場の跡みたいな残り火の周りに消火用バケツを椅子代わり座り込み、再びストーム歌を高唱し、と共にそれまでの学校側との交渉の苦労など語り合いながらとうとう夜を明かした。
 その時のフライパン代わりに逆さまのバケツの底で焼いて食べた薩摩揚げの美味かった事は、その夜の楽しかった事と併せて今でも良く思い出す。

終わりに
 いやはや思い起こすと切りがない。佐高の思い出を楽しみながら書いてきたが、ここらで終るとしよう。
 佐高1,2年当時の記憶が多かったが3年の時は何をしていたのかあまり記憶がない。多分人並みに受験で悩んでいたのかな。
 ともあれ佐高時代が人生で最も思いでの深い期間だったことは間違いない。だからこそ最近でも当時の仲間と時々会いたくなるのだろう。


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