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歴史と私 Ⅱ [会員コラム]

西高6回生 増岡 昭憲
 
増岡さんフォト.jpg 私が参加している柏原歴史勉強会は以前調査した、地元大平寺古墳の入り口に刻まれた大きな三本の矢穴についてと、柏原地区での合薬再生所跡の話であった。
 矢穴とは石を切り出すときに割りやすいように楔の穴を彫ることである。太平寺古墳の矢穴には、長政公が福岡城築城の際大量の石を必要とした時に、古墳の石も使ったらしい。しかしなぜ矢穴までほっといてそのまま放置したかが謎とのこと。え~私が推測するに、以前小説「沈まぬ太陽」で整備ミスの旅客機が事故を起こし、不時着事故を起こしたのを、機長の操縦技術で死傷者が少なかったと美化して発表し、会社の不備を隠蔽した担当者が出世をするところがある。あれと似てる。一つ残すことで、神仏に対し長政公が信心深いことを印象づけ たのではないかと思われる。ほかの古墳群の石はすべて抜き取られているのに。寺塚の古墳群も一つだけ残っている。
 火薬の製造に関しては、当時幕府の命令で長崎の防衛を佐賀藩と福岡藩で交代で行っている。その時に大砲の火薬がいるので、大量に作る必要があった。じゃ~なぜ柏原か?火薬の原料は木炭と硝酸と硫黄である。その中で硝酸が手に入らなかったらしい。そこで代替えとして人糞や床下の動物の汚物から硝酸を作っていたらしい。高校の時の化学授業を思い出せばわかるが、アンモニアを酸化させれば硝酸になる。増岡 先輩 資料 注意書き.jpg因みに園芸店で肥料の尿素を購入するときは爆弾の材料予防として警察へ免許書のコピーを求められる。だがその作業は当時かなりの悪臭を発するので田舎が適してると思われたのではないだろうか。そのこと聞いてみると、柏原は硝酸の状態で持ち込まれて合薬製作されていたのではとのこと。 考古学者はアンモニアと硝酸のにおいの差はあまり問題なさそうである。
 佐賀はどこで製造していたのだろうか? 佐賀鍋島藩は担当年の時に「フェートン号事件」を起こし、藩主は謹慎し、責任者は切腹の大失態を演じる。この時から大砲の研究など初めとして最先端の科学技術を研究し始める。これが幕末時の肥前の台頭となる。
 鍋島閑叟公は佐賀藩の志士の教育の為フルベッキを呼んでいる。
 佐賀のお膝元には佐賀西の前身である藩校の弘道館があるので長崎に致遠館を佐賀藩校として設立している。この致遠館の集合写真に賛否両論あるがとんでもない人物が写っているらしい。呉越同舟よろしく、幕府側と倒幕の志士が同じ場所で、なんといっても一番驚くのが若い明治天皇が写っているとしている。孝明天皇を暗殺した伊藤博文がその子の祐宮も暗殺し長州騎兵隊の大室寅之祐とすりかわらせたとの説。
フルベッキ群像写真.jpg
          ↑ フルベッキ群像写真(注1)
 実に面白く維新の理に適っている。でもま~歴史学者には認められるはずはないだろう。閑叟公は今も県民に勇気のDNAを与えている。 
 鍋島閑叟公は幕末に幕府側にも雄藩にも態度をはっきりしなかったことで、評価がいまいちだ。佐賀藩の志士達はほとんど博識で、薩摩や長州の無学の志士たちとはわけが違うので、雄藩の彼らには将来を憂いていたのであろう。日本が英仏の代理戦争の場となり清国みたいに植民地化されるのを恐れたのであないかと思われる。正室が将軍家から、また継室が御三家から来ているので、そのことも少なからず影響したのだろう。明治維新ではそれで一歩引いたのではないかな?維新時の科学技術は佐賀が国内随一だったらしい。倒幕に積極的に参加しなかったのは、薩長の志士が英国の傀儡であまりにも無学で、祖国愛が無かったのではないだろうか。英国の武器以上の性能と科学技術を日本の滅亡には使いたくなかったのでは?当時の雄藩は薩摩は下級武士で長州に至っては百姓、商人や町医者ばかりで明倫館等の知識階層はいないのである 。佐賀藩とは雲泥の差である。歴史学者達は参考文献がないとのことでそのことには否定的である。維新後は佐賀は警戒され、虐げられ続ける事になる。江藤新平抹殺もそれが一因だろう。
 福岡藩はペリーの浦賀沖の一件から、幕府からの命で合薬の製造所を増やしたようである。我が住処の柏原他に近くの花畑、那珂川安徳にも合薬製造所があったらしい、又福大の近くには火薬の保存所があったとのこと。福岡藩も佐賀藩みたいに大砲などの開発などをしていたら、維新で取り残されなかったのではないだろうか?歴史的地理的にも重要な場所にあるのに、九州での福岡の重要性を増すのはつい最近である。官公庁の九州の拠点はそれまで福岡にはなかったのである。
 幕末時英国の傀儡の薩長を除けば佐賀藩が一番突出していたのではないだろうか?しかし歴史は説明のつかない方向に進んでいくのである。ワァィ~ジャパニーズ? ロシアにまで勝ってしまうとは!

*フルベッキ群像写真(注1) 補足 HP運営委員会
 歴史愛好家の間で話題となっている写真です。
 佐賀藩が幕末の慶応元年(1865年)長崎の五島町にあった諫早藩(龍造寺)山本屋敷を改造して設立した英学校「致遠館」において、校長であったオランダ人宣教師フルベッキと、その学生たちの集合写真が基になっているとみられます。
 副島種臣・大隈重信が当初教頭格として指導に当たり、明治元年10月27日(1868年12月10日)に致遠館に留学した岩倉具定・具経兄弟(岩倉具視の次男と三男)を迎えて、明治元年から2年の間で、日本の写真スタジオの元祖と言われる上野彦馬のスタジオで撮影されたとの見方が定説になりつつあるようです。

*会員コラムへのコメント投稿を待ってます。同窓交流活性化の為、卒業回数(卒業年)・氏名の明記をお願いします。


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